デカルト以来の、「存在の正しさがどのように確かめるられるか」という疑問に対し、全てを懐疑するわけにもいかず、全てを神に委ねるわけにもいかず、哲学はその矛盾の中で様々なアイデアを出してきた。この存在への問いに対して、カントは「アプリオリとアポステリオリ」「分析と総合」という観点を導入し、「アプリオリな分析的認識」と「アポステリオリな総合的認識」との間に「アプリオリな総合」なるものを捻り出すことによって、答えようとした。人間の認識は「物自体」には到達することはできないけれど、自ら感性や悟性などの人間が認識できるフレームに世界を当てはめることによって、世界データを手にして、世界を認識することができるようになる。そして、そこに「だって、そーなんだもん」と言えるような状況が確かめられることによって、そのフレーム自体を「アプリオリな総合」にできるとしたのだ。「神の視点による実在論」ではなく、「人間の視点による実在論」というアイデアを、カントは「超越論的観念論」および「経験的実在論」と呼び、観念論と実在論を1つにした。
ウィトゲンシュタインの世界観は、カントの「超越論的」な世界観に寄り添った部分が多く、非常に似ている。しかし、ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」という本で「アプリオリな総合」という認識を認めず、人間は世界の像を作ることによって世界に到達できるとした。この世界観は、カント以上に独我論的だとも言える。