最近はGhaemiのBipolar関係の話とか RyleのCAT(認知分析療法)の話とか

最近はGhaemiのBipolar関係の話とか
RyleのCAT(認知分析療法)の話とか
並行して読んでいるのだけれど
格段にレベルが違うので
その意味で面白い

CATなどの話はイギリスでNHSの制度のもと
なんとか安く「一応の」治療をしようというので
ちょうど薬剤でジェネリック薬を使って医療費を安くしようというのと同じ発想だと思う

CATの話はmentalizationとかACT:acceptance & commitment でmindful につながったりするし
ベストセラーのような本もあったりするのだけれど
何だか話の進み方が遅くて
何が大事なことなのかいらいらしたりする
心理学系の話はこのような語り口なのだろうと
諦めるしかないのだろう

安く早く治療者を養成して
安く早く治療を終わらせる
治らないのは自己責任

そして治療と称して実行しているものが果たして治療なのか
そしてそもそも対象としているものが病気なのか
いろいろな問題はある

つぎつぎに新しい流派を提出して見せているのは
大学でポストが欲しいからという理由だろう

どの治療法も治療構造が同じなので
その限りにおいて認められるということなのだろう
誰かの子分でいたほうが良さそうか
少しだけ言葉を変えて新しい流派を名乗ったほうがいいか
政治そのものである

お題目のように
精神分析の難しい話を
認知理論の明晰な言語で語り直す
そうすれば素晴らしいはず
といわれるのだが

語り直しはちっとも成功していないし
せっかくのモネの睡蓮が子供の絵になったようなもので
なんとも困ったものだと思う
たしかにその方が誰にでもできるし安上がりだけれど

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Bipolarの話は最近薬剤の認可が大幅に進んだことで
診断基準そのものを見なおしたほうが話がすっきりすると言い出す人もいて
躁とうつの昔からの基準にも疑問が呈されており
というか、あるいは、昔の基準に帰れと言う人もいて
DSMⅣのうつが広すぎてマニーが狭すぎるというわけだ

さらにいつも一定期間を置いて出現して、必ず何の痕跡も残さずに消えてゆく
血液検査とか脳画像でうつが分かるという話

将来的にはもちろんそうなって欲しいものだけれど
現状で、たとえばうつ病の人を20人、健常者を20人集めました
と書いてあったとして
それはどのようにして確定しましたかと質問したい

それが確定できるのならばすでに診断には非侵襲的な診断で不自由しないはず
確定できないならば(もちろん確定などできない。できるのはDSMⅣの大うつとか、そんなものだけ)
何の2群を比較しているのか、まことに不明確

面白いから聞いてみたいのだけれど
それでは、マニーの人は検査値はどうなるの?
その値を見て、躁うつ病という病名を保持するの?

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それはともかくとして
精神分析が精神障害の時間的生成について
非常に哲学的な言葉で深くまで成果をあげたことは多分正しい
しかし困ったことに、だからといって、誰も治らなかった

さらに困ったことに理解する人も少なく
自分がきちんと理解しているのかどうかを判断する方法も難しいらしい
だから愚かな人ほど自分はマイスターだと自認する 

精神分析学は言葉の通り、分析するだけで、治療する技術ではなかった
精神の解剖学であったが
精神の治療学ではなかった

治療の局面で精神分析はいきなり恋愛転移の問題にぶつかり
誰も解決できなかった
解決は分析を離れることだけだっただろうと思う

そしてさらに
私の先輩などが言っていたのだけれども
たとえばラカンを読んで理解したからといって
それを喜んでラカン派を自称するのはどうかしている

ラカンを理解すれば
ラカンが語っている同じ事をもっと平易な言葉で語ることができる
その場合、別段新奇なことはない
結論としては、もう一度機嫌のいい時を選んで話し合ってみたらいいとか、そんなこと

物事を理解するということは
治療の局面では患者を個別に理解するということであって
一般理論を構想することではないだろうというのである

実際、ある患者にインスパイアされて一般理論を思いついたとして
次の患者には迷惑というものだろう
症状の外見が似ているからと
同じ薬を出されるようなもので
迷惑に違いない

ジャクソニスムのような、有効で説得力のある一般理論はあるけれども
そのことと臨床観察を一致させることも結構名人芸だろうと思う

結局患者さんが治るわけでもないだろう
といえば
そこで話は途切れる

途切れないようにRCTとかエビデンスとか言われているのだが
興奮している相手にはたいてい無視される