患者さんは自分の不調に対しての自己理解をあらかじめ持っている場合がある

患者さんは自分の不調に対しての自己理解をあらかじめ持っている場合がある

多くは外部原因説であり
たとえば上司が変人だからとか、夫が共感性がないからとか、企業体質としてあまりにおかしいとか
そのせいで自分は体調が悪いのだとあらかじめ理解している

また少数ではあるが
自分は子供の頃から世界に馴染めず
会社に入ってますます馴染めず
苦しい思いをしてきたがもう限界である
というように
自分の内部に原因を見出している人もある

またたとえば親も苦しんでしいたし
親戚にも心療内科に通院して薬をもらっている人が何人かいたりして
自分も同じような状態なのだろうと理解している人もいる

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外部原因説を抱いている人たちは
自分の置かれた状況がいかに過酷で理不尽で心の傷になるものであるかを語り続ける

状況から自然に因果関係が推定されるのだと力説する
それが反応性の症状である

一方で遺伝性とか自分の生まれて以来の一貫した性格であるとかいう場合は
精神医学で言う、内因性の症状である

反応性の場合は脳に異常はなく
内因性の場合は脳に(まだ原因が特定できないが)異常があると推定される

反応性という場合、環境が過酷なのだけれども、おおむね、疲労という現象に集約されると思う
外部原因によって、内部に疲労が蓄積し、その結果、いろいろな症状が現れたと理解する

そのような過酷な環境に置かれたら誰でも多かれ少なかれ症状を呈するだろう
というのが説明の要点である
聞く側は状況から症状に至るプロセスを「了解」する
それは了解可能であるということを語る側と聞く側で共有する

内因性の場合は了解不能である
なぜ周囲の誰もが患者の行動を見張っているのか了解不能である
しかし脳の病気であるという仮定を置けば、説明は可能である

昔、ヤスパースという人が、了解可能なものは神経症で、
了解不可能で、説明だけが可能であるものが内因性精神病であると、分類した

了解可能なものは、あくまで自然な常識で了解可能、つまり共感的に理解可能なものであるが
フロイトの説により、無意識のプロセスを仮定し、葛藤などの心理力動を仮定すれば、
了解可能の領域が拡大できると考えられた

その辺りになると、なぜそれが了解可能なのか、自然に理解する人は困難で、
一部の流派の人達だけが了解可能であると言い張っているように思えて
了解可能、了解不可能の区別は、説明しにくいし、実験もできないし、
要するに自然科学的な理解の範囲を超えたものではないかと疑われた

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一方、脳の病理からの理解は未だに進歩していない
しかし薬剤の使用拡大は続いており、精神薬理学は研究者の数も増え続けている

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反応性の病理と内因性の病理と、二つが両極にあり、その中間地帯で線引きに迷う事態が発生すると考えられる
また一方で
内因性の病理が発生すれば、当然であるが強いストレス因になるはずで、反応性の病理が重なることになる

たとえば内因性うつ病の場合に、神経症性のうつ病成分が重なるように発生することは
しばしば観察されるところである

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しかし現代の知見で考えてみれば
反応性と内因性はたとえば二つの大陸が海を挟んで向かい合うような、同一平面上のことではないと
考えられる

単純な還元主義をいうものではないが
反応性の病理の背景にもやはり脳神経細胞の話があるはずだろう
還元しきれないものはある、しかし、基礎となり背景となっているのは脳神経細胞の話だろう

紙とインクがあればすべての物語は作れるのだが
しかし紙とインクだけでは物語を思いつくこともできず理解することもできないだろう
紙とインクの成分を分析して意味が分かるはずはないだろう

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反応性の病理が全員に了解可能であるとしても
全員に起こるわけではない
やはりそこには各個体の個性が基盤として存在している

それはわかりやすい特性であることもあるし
無意識の世界とかのようにやや説明しにくい特性であるかもしれない

その辺りを考えると、了解可能性も曖昧にならざるをえない

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人間の習性として、厳密さを求めるよりも、
了解概念を曖昧に適用して、了解の範囲を拡大するほうがヒューマニズム的であると考えられてきた
異常と正常はなんら変わりなく
ただ社会適応の違いだけ、もっぱら社会の都合で定められているだけだと極論することもできそうである

苦痛はあるだろうが、苦痛のどこが病気なのか、疾病概念を問いなおすとすれば、
再度、話は曖昧になる

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「私にはよくわかります、あなたには子供の頃の愛情が足りなかったのね」というセリフを用意すれば
ほぼすべてを説明できると思っている人もいる
その人には幾分か分かっているのだろうが、大半の人には、正確な因果関係はわからない

双生児研究とかの手法でも分かることは少ないし
そもそもそのようなことを言う人は厳密な理解など興味はなくて
そのようなセリフが好きなだけだろうと思う

完全な親はいないのだから、必ず当てはまるが、何も説明できない
了解できているというその人も他人に説明ができない

アインシュタインの言うことを一般の人はすぐには理解できないのだと例えを出すかもしれないが
まさかそこまで言うこともないだろう

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病識があるかないかも古くから言われていることである
外来通院する人は原則病識が形成されているので
やはり著しい違いは病気の原因の理解の仕方にあるのではないかと思われる

精神の領域での病気の原因理解は大変大きく流行に左右される

啓蒙というより宣伝であったり
理解というより、アンダーグラウンドでの噂であったりする

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平たくいえば、どこまでが普通の反応であるか、ということになるのだろうが
人間は自分が普通だとか、普通より上等だとか思っているものなので、なかなか厄介である
その点で自己理解と病気理解が足りない場合、
誤解して、原因を外部に求めている場合があり、広い意味で病気に関しての認識が足りないということになるだろう
苦しみの原因を誤解しているのだが
その誤解を商売の種にしている人たちもいるのでややこしいと脱力する

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人間の状況は誰でもどこかしらは特殊であるから
反応が特殊であるのも一般に当てはまるのかもしれない

特殊であることは確かであるが
誰でも特殊なのであるから、その点では共通である
特殊さの中身は共通しない

そう考えれば、反応が特殊であることも、反応が了解不能であることも、
反応性の病理であることの反証にはならない

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無意識の物語はよくできていて
患者本人にはわからないことが
特殊な訓練をうけて秘密裏に認証された者だけにはわかるし
そのことを本人にも理解してもらうことができるというもので
特権階級を作り出すうまい装置だった
IOC委員がいつのまにかオリンピック開催地を決定する権利を持ったことに似ていて
人間のすることはいつも同型反復なのだと考えさせられる

しかし脳神経回路の話もまだほとんどわかっていないのだから
こちらにしてもフロイトよりもエレガントだとも言い難い

神話、占星術、錬金術、聖書から仏典まで
人間はその範囲で物事を理解するのだから
まずまず充分といえるだろう
ご苦労様なことであった

2013-05-05 02:26