“しかし、ここ10年くらいで、一人称の性質は大きく変わった。知りあいの編集者に聞いたところ、純文学系の新人賞の応募作品は、ほぼ99パーセント一人称だという。〔…〕世界は「私」になり、「私」をそのまま世界に一致させることに抵抗がなくなったし、世界の中にいる「私」を俯瞰するよりも「私」という檻の中から世界を見、「私が傷つき」「私が癒され」ることが最優先になったのである。〔…〕「私」を表現するには、冷徹な自己観察力を必要とすること、「私」の視点でいる限り、いつまでも自分を発見できないこと。「本当の私」をつかむに

“しかし、ここ10年くらいで、一人称の性質は大きく変わった。知りあいの編集者に聞いたところ、純文学系の新人賞の応募作品は、ほぼ99パーセント一人称だという。〔…〕世界は「私」になり、「私」をそのまま世界に一致させることに抵抗がなくなったし、世界の中にいる「私」を俯瞰するよりも「私」という檻の中から世界を見、「私が傷つき」「私が癒され」ることが最優先になったのである。

「私」を表現するには、冷徹な自己観察力を必要とすること、「私」の視点でいる限り、いつまでも自分を発見できないこと。「本当の私」をつかむには、何より三人称の視点を獲得する以外ないという、逆説めいた事実を受け入れるしかないのだということを。”

“初めての絵本も、児童文学も、かつてお話のほとんどは三人称だった。文字通り、絵本や児童文学で、世界を傭放し、自分を外側から見ることを覚えていったように思う。
それに、私の印象では、かれこれ三十年も前は、一人称を使うのは、一人称を使うこと自体にお話の仕掛けがあるか、
かなり突っ張った、既成の大人社会への抵抗を示す場合のみだった。
だからこそ、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』や庄司薫が若者に熱狂的に受け入れられたのであり、今現在、村上春樹が世界で「青年の文学」として人気を博しているのだと思う。
そのいっぽうで、私は小説を書き始めたころから、一人称というものが言わば「禁じ手」のように感じられていた。
――「一人称の罠」”