物語的立体的全体的理解

患者さんのお話というのは
どんなに小さくて短くても
ひとつの物語なのだろう

眠れないとか
いらいらするとか
疲れやすいとかの
パーツが
どんな風に関係していて
全体の物語を作り出しているのか
そこが知りたいわけだ
小さな、この1週間の物語

デッサンをしていて
手だけ、足だけというのもあるけれど、
全体としてどんな風になっているのか
その中で手はどんな表情なのか、
そのあたりの全体把握が問題なんだろうと思う

パーツの把握は
たとえば質問紙、DSMの項目、構造化面接の手法などで
できるのだし
結局DSMに還元されるのであれば
パーツだけ把握すれば十分ということになるのかもしれない

でも、そうじゃない

たとえばCMIなどでもいいしBDIでもいいのだけれど
丸を付けてもらう
そこのではパーツであり平面的な素材である
それがどのように組み合わされて
物語ができているのかを知りたい

CMIの項目として平面的に「はい」「いいえ」が並んでいるのだが
個別の「はい」は同じ重みを持つわけではない
実は重みがちがっている
どうして、どのように、違うのかが問題だろう

この「はい」はどのくらいの重みがあって、どんな内容があって、
前回の「はい」とどう変化していているのか
それは量的な変化として把握することは難しいし
さしあたって知っても知らなくても
薬も決められるし方針も決められるのかもしれないが
そして客観的ではあり得ないのかもしれないが
それでも人間同士の認知は物語的である

そこの事情とか物語を把握して
初めて『理解した』という感覚が出るわけだし
患者の側にすれば『理解された』という感覚が出るのだろうと思う。

パーツが全体の中でどのような意味づけを持つのかを知りたいので
補足の質問をしたり、話のきっかけを提出したりするときは、
そこに関わることが多い

物語の一番大きな枠組みは人生で
それと重なる形で病気がある
そして小さな物語がエピソードの形で積み重ねられてゆく

物語というのは
各パーツが全体の中での役割を持って構成されているひとまとまりのお話ということだ
起承転結とか伏線とか
テーマの反復とか、そういうことになる

人生に関しての分類引き出しも多い方がいいし
病気に関しての分類引き出しも多い方がいい
現在のDSMも大切ではあるが
昔はこういったとか、そんなことも結構役に立つ

多分、昔の把握の方が物語的なのだろう

ディメンジョン評価とかでは
各側面を個別に評価しているので
誠に現代的なのだけれども
それを聞いても、ちっとも『分かった』という気分にならない

たとえば不眠の、意味づけとか、自分なりの解釈とか、納得の仕方とか
それを知りたいのであって
それは事実として正しいというのではなくて
その人はそう考えたという情報が
我々に何かを教えてくれるのだと思う