イワン・イリイチの死 臨死体験の解釈

採録
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イワン・イリイチの死、トルストイ作、米川正夫訳、岩波文庫
イワン・イリイチ。45才。裁判所判事。彼は一官吏としてもくもくと出世街道を登り詰めてきた。しかし彼にとって家庭生活は決して愉快なものではなかった。家内とはいつも言い争い、疎ましく思っていた。出世し、他人がうらやむ金を稼ぐ、ここにイワン・イリイチの人生の欲望があった。
官界における栄達、私的生活の充実、イワン・イリイチは自ら獲得した生活に充足されたと思い込んだ。そんなある日、脇腹に重苦しさを感じ、何人かの名医に診て貰った。危険か、危険でないのか、知りたいのは結論だった。しかし名医達は患者の前で患者の意向に正しく応えようとはしなかった。病状は確実に悪化していった。イワン・イリイチは自分が死にかかっているのではないかと感じた。それは絶望そのものであった。
彼は「人間は必ず死ぬ」という三段論法を正しいと考えたが、それはあくまで一般の人を対象にした論理であり、自分は生まれてから今日まで自分そのものであり、自分にはこの論理は別物であった。自分が死なねばならぬことなど、あまりにも恐ろしいことであった。
彼はこの考えの代わりに次々と別の考えを持ち出し、これを忘れようと努めた。しかし再びこの考えに戻ると、そこではもう死は覆い隠すことなく、むき出しで彼に迫った。彼は裁判所に出かけ気を紛らわせようとした。しかし痛みは彼にひしひしと迫った。彼は別の覆いを捜したが、痛みは容赦なく彼に死を覆い隠すことなく迫ってくる。
周囲の嘘がイワンを苛立たせた。下男ゲラーシムだけが本当の姿で彼に処してくれた。ゲラーシムと一緒にいる時だけは不思議に痛みが癒えた。ゲラーシムの言葉「人間は誰でも死ぬもので御座います」。イワンはこの言葉は素直に聞けた。しかし一人でいるのは怖かった。周囲の嘘と偽善は彼を苦しませた。健康な家内や娘の身体を見る度に憎悪が走った。自分に同情し、泣いてくれる息子だけが不憫でならない。ゲラーシムと息子だけが自分を憐れんでくれていると思った。
一人になってイワンは泣いた。一人になって内なる魂の声を聞いた。「自分の人生は間違っていたのか。自分は何を求めて生きてきたのだ」。身体は日を追う毎に衰弱していった。
寝ている彼が味わうのは孤独だった。孤独の中で過去を思った。過去の最初には1点の光があった。しかし光は加速度的に暗くなり、墜落、衝突、破壊が待っている。「自分は間違った生き方をしてきたかも知れない」。全てが欺瞞だ、しかし今や回復不能。
のたうち回る。家内の虚偽と欺瞞に満ちた目。憎悪の念と痛みが身体を襲う。「自分は間違っていた。しかし本当のこととは一体何だろう」。息子が近くに来て手を握って泣き出した。落ちていく中でイワン・イリイチは光を見た。「そうだ、わしはこの連中を苦しめている。みんな可哀相だ。しかしわしが死ねばみな楽になるだろう。そんなこと口に出さずともわしが死ねば良いのだ」。この瞬間、全てが楽になった。痛みも消えた。目の前には、死の代わりに光があった。何という喜びだ。「死はおしまいだ」彼はこの言葉を最後に耳にしながら、息を引き取った。
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臨死体験をどう解釈するか
生まれるとき産道を経過する間の体験が
死に際して臨死体験として経験されるのではないかという考えもある
最初の記憶に戻る
それはそれでつじつまが合っていると思う