ポジティブ心理学

 いま、米国ではコーチングのあり方が問われ始めている。

 日本でも人材育成や自己啓発の目的で利用が増え続けているコーチングだが、先行する米国では一大産業となっている。国際コーチ連盟(ICF)によると、コーチング産業による全世界の総収益は毎年15億米ドル(約1200億円)に上るという。

 こうした動きに対して、ハーバード・メディカルスクール(ハーバード大学医学部)とマクリーン病院(ハーバード大学医学部付属精神科)は、毎年秋に2日間の「コーチング会議」を主催している。今年で4年目を迎えた「コーチング会議」は、ハーバード大学におけるポジティブ心理学に関する取り組みを紹介する絶好の機会として一般にも公開されてきた。基調講演に加え、リーダーシップコーチング、ヘルスとウェルネス(医療)コーチング、ポジティブ心理学とコーチングなど、今年も各分野の第一人者20人を講演者に迎え、例年どおり盛況となった。

安易なコーチングに警鐘ならすハーバード大医学部

 実は、ハーバード大学が先導してコーチングの改革に乗り出した背景には、コーチング産業が巨大化する一方で、効果を実証する科学的データもなく、実際に効果のあったコーチング手法を再現する方法や体系化された理論もなく今日に至っているという実態への危惧がある。

 医師には、技術や資格面での厳格な統一基準があるのに、コーチにはそれがない。本来であればコーチにもそれ相応の技術や資格が課されるべきであったとする意見も多い。コーチングには誰でも参入できクライアントを持てるため、玉石混交の状態のまま市場規模が拡大してきたという深い反省が込められている。

 ハーバード発のコーチング改革というこの新たな動きの大きな要因として、何よりもコーチング産業に関わる人が増えたことで、米国におけるコーチングの質やコーチとしての資格取得をめぐる不透明さに対するコーチたち自身の目が厳しくなってきたこともある。

 こうした構造的な不完全さを解消するために、コーチングにおける科学的基盤の構築を心理学に求める動きがここ数年、急速に高まってきた。そこで大いに重宝されているのが、ポジティブ心理学の理論や実証的な研究データなのである。

 ヒトは「病気でない」というだけでは、心身ともに健康で、幸せや生きがいに満ちた人生を実現できるような状態を手に入れられるとは限らない。個人も組織も、現状を改善し、ポジティブ(前向き)な変革を成し遂げようとするならば、意図的な努力に加えて、しかるべき条件とプロセスが求められる。

 それがポジティブ心理学の研究対象とする領域であり、またポジティブ心理学の応用としてのコーチングが人々に必要とされるゆえんでもある。

 ハーバード・メディカルスクールのキャロル・カウフマン氏は、ポジティブ心理学の勢いを借りて、ポジティブ心理学の発展と二人三脚でコーチングの改革を推進したいと考えた。

 そこで、コーチングの理論的研究とベストプラクティスを全面的に支援すべく2009年に同校に「インスティチュート・オブ・コーチング」(コーチング研究所)を創設し、コーチたちの支援に全面的に力を注いでいる。

 コーチング研究に関する学術文献数は、近年になって急増しているものの、研究の質・量ともにまだまだ向上を要することが指摘されている。ハーバードでの取り組みをはじめとする研究のさらなる発展に伴い、コーチングにも信頼に足る実証的基盤が確立される日が来ることが期待されている。 

コーチングに関する学術文献数の推移。全文献の8割以上がここ10年間に発表されている。提供:シドニー大学アンソニー・グラント教授。

「幸福感」の確認でエリートたちの苦悩を解く試み

 ハーバード大学で一番の人気授業だったポジティブ心理学講座を支えたショーン・エイカー氏の『幸福優位 7つの法則』では、「幸福優位性(ハピネス・アドバンテージ)」という少々耳慣れない言葉が紹介されている。

 これは、何事もまずは幸福感(ポジティブな感情)ありきで、幸福感を持った結果としてあらゆる物事がうまく回り出すことが神経科学の研究からも明らかにされているというキー概念を表す言葉だ。

 今年のハーバード・コーチング会議で、ポジティブ心理学とコーチングのセッションを担当した当分野の第一人者であるロバート・ビスワス=ディーナー講師は、この「幸福優位性」の重要性を常に再確認させた。そして、幸福感はコーチングの達成すべき目標であるだけでなく、コーチとクライアントの間でポジティブな関係性を築くなど、幸福感をコーチングの手段として活用することの有効性を提唱する。

 過去の会議では、「幸福優位性」を人材育成に適用して自らの職場で成果を挙げているという人物の実演が参加者の絶大な人気をさらったこともある。その人物とは、来日したこともあるボストン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者で著名なコーチのベンジャミン・ザンダー氏である。

 ザンダー氏のやり方はこうだ。自らが講師を務める音楽院で、毎年、新年度のはじめに、60人の音楽家の卵たちに「A」という文字を書かせる。日本でいうなら「5」か「優」の成績となる。

 「A」という文字とともに成績が授与される学年の最後の日の日付も書かせる。そして、なぜ学年末に自分が「A」をもらえたのかを学生自身に説明させ、「A」をもらった自分に「惚れさせる」。そのとき、すかさず「自分はAなど取れないのではないか」とささやきかける自分の声を完全に念頭から追いやるようにと指導するのだ。

ハーバード・コーチング会議でチェロ奏者を相手に実演するベンジャミン・ザンダー氏。講演の内容は、『チャンスを広げる思考トレーニング』(日経BP社)に詳しい

 すると「A」は、今あるダメで不幸な自分が追いつくべき目標ではなく、これから起きるすべての出来事の出発点へと変わる。「A」をもらった幸せな自分からスタートする、まさに「幸福優位」に立つのだ。

 結果的に、学生たちは外からの期待に添うように頑張るのではなく、「A」という新たな「未来の現実」(エイカー氏の言葉を借りれば、「可能性がある」から「可能である」へと変容を遂げた現実)の中に自らを見出して生きるようになるという。

 ザンダー氏によると、音楽家の卵たちは、仲間たちとの激しい競争や、教師からの厳しい評価に戦々恐々とし、張り詰めた緊張感のなかで日々音楽の練習に明け暮れている。またオーケストラ団員たちも、指揮者をトップとする伝統的な階級社会であるオーケストラの世界にあって、自分たちの仕事に対する満足度は極めて低いという。

 だが、「A」をもらった学生たちだけではなく、階級のトップにいる教師も、学生たちに「A」を与えたという事実を受けて変わり始める。教師と学生の間には、従来の階級ではなくて、「A」がつなぐ新たな関係性が築かれるのだ。「オーケストラという閉鎖的な環境においてこの変化は大きい」とザンダー氏は言う。

 ザンダー氏の講演が終了し、熱気に包まれた会場の真ん中で、ある参加者が立ち上がり発言した。

「あなたのような師にもっと早く出会えていれば、私は若い時に音楽の道を諦めずに済んだ。とにかく練習が厳しくて、耐えられずに断念したのです。私は美しい音楽の世界を諦めるとともに、その世界に生きようとする自分の可能性も捨ててしまったのだと気づきました」

 涙ながらに語る声が会場に響き渡ったとき、参加者の感動はピークに達したようだった。つかさずもう1人の参加者が、声を大にして叫んだ。

「私は会社役員ですが、この方法は私の職場でも十分に使える。もっと早く知っておけばよかった!」

“集中”がカギ、心理学からポジティブ・コンピューティングへ

 ポジティブ心理学の創始者であり、ペンシルベニア大学心理学部のマーティン・セリグマン教授が指揮する最新研究プロジェクトに「世界ウェルビーイング・プロジェクト(WWBP)」がある。

 人々が最もよく作用し、幸せや生きがいに満ちた人生を実現できるような状況(ウェルビーイング)を世界的規模で創り出すにはどうしたらよいのか。この目標に対して、教育における取り組みだけではあまりにも進展が遅いことがネックとなっていたところに、各方面からIT技術者が集まってきた。

 フェイスブック、マイクロソフト、ヒューレット・パッカード、マサチューセッツ工科大学(MIT)、スタンフォード大学などからIT技術者たちが一堂に会し、英語圏でインターネットを利用する億単位のユーザー向けにウェルビーイングを測定評価し、増進するための配信モデルを考案中である。

 これは別名「ポジティブ・コンピューティング」とも呼ばれる、インターネットを利用したポジティブ心理学に関する全世界的な取り組みで、その他にも米国の複数の大学や民間企業で盛んに行われている。

カリフォルニア大学リバーサイド校ソニア・リューボミルスキー教授の研究から開発されたiPhoneアプリ「Live Happy」。ポジティブ心理学関連アプリは複数販売されている

 一例として、ハーバード大学心理学部のダニエル・ギルバート教授の研究室では、「あなたの幸福度を追跡記録する(Track Your Happiness)」と名づけたiPhoneアプリを利用しての研究を進めている。

 これは、回答者がどれほど幸せに感じているのか、その時何をしているのか、ぼんやりしていたのか集中していたのかなど、1分ほどの質問に答えてもらい、その瞬間の回答者自身の状態について調査するものだ。

 その結果、回答者がその時々で具体的に何をしていたかではなく、物事に“集中”していたかどうかが幸福度アップのカギを握るという興味深い事実が判明した。

 さらには、ゲームに集中しているときに生まれるポジティブな感情(向社会的感情)や、人と一緒にゲームに興じるときに生まれるポジティブな関係性、ゲームにおける達成感など、ゲームが人々のウェルビーイングに及ぼす影響力への研究も進む。

ペンシルベニア大学ポジティブ心理学センターで講演するジェーン・マクゴニガル氏。同大学は2011年度を「ゲーム年」とし、ゲームの応用に関する研究発表会を数多く実施している

 その第一人者でゲームを通して現実の人生の幸福を構築していく可能性を提唱しているのが、世界的に著名なゲームクリエーターのジェーン・マクゴニガル氏である。詳しくはマクゴニガル氏の新刊『幸せな未来は「ゲーム」が創る』を参照されたい。

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というような記事 

その時々で具体的に何をしていたかではなく、物事に“集中”していたかどうかが幸福度アップのカギを握る

ゲームを通して現実の人生の幸福を構築していく可能性