客観的治癒と主観的満足 価値観の対立

例えばあなたがオーディオ屋さんだとして
お客さんがこういう音をお願いしますというならば
プロなんだからそのとおりにしてあげる事もできるが
しかし例えばどうせ50万円を払うならば
先々を考えて、こういう音のほうがいいと思いますよと
まともに言いたい場合もあり、それもプロの自負の一部である
しかしこの時代に言いすぎては
いろいろと誤解されるようなことを広められてもいけないので
商売のじゃまにならない程度にすることもあるのだろう
何が真にお客さんの利益なのか
ここは難しいところがある

スポーツトレーナーも同じ
ここの筋肉を強くしてと言われればできないことはない
しかしそれが本当にいいことなのかについてはアドバイスしたいし
意見が一致しない場合にはトレーナーを断りたいという場合もあるだろう

たとえばあなたが整骨院の施術師だとして
自分なりに正しい意見を言えばお客さんの考えに反し
自分の意見を引っ込めてお客さん満足を第一にすれば
お客さんは主観的な満足を得ることできるのだが
施術者の考える治癒像とは程遠いものであるかもしれない
施術者の価値観が絶対に正しいことはないのであるが
しかし施術者はプロであるし
なんといっても類似例を日々体験しているのだから
ある種のプロなのである
しかしお客さんはそんなことは理解しない
理解しているくらいならサービスを求めてこないだろう
さてどうするか
理解していないのに自分は正しいと思っているとしたら
何をどうすればいいのだろう

たとえばあなたが臨床心理士を指導教育する係であったとして
生徒である臨床心理士が主観的に満足できる言葉をかけることはいくらでも出来るのだが
生徒が成長する言葉は往々にして生徒には耳に痛いものであって
その場合に褒めて伸ばすということがよく言われるのだけれども
褒められても全く伸びない場合は
いったいどうしたらいいのだろう

客の主観的な満足とサービス側の主観的な価値観が一致する場合はいいのだけれども
と書きかけたが
いや、はたしてそれでいいのだろうか

たとえば
30年後に癌になる、そのような原因となる食べ物を欲しがる人がいて
それを売っているが、がんに関する事実は知らず、自分も好きで食べている販売者という場合
どこにも罪はないように思えるが
たとえば最近の日本国民は国が法律で規制していない限りは
売ってもいいはずだし買って食べてもいいはずだとか
言いかねないと思うのだが
はたしてそんなものだろうか

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たとえばルールの非常に複雑なスポーツがあったとして
そのチャンピオンは代々審判経験者であるとしたら
チャンピオンになりたい人は体を鍛えるよりも
審判になってルールの細部に精通し
明文化されていない習慣的ルールまで体得することがいいことなのだろうか
一体何のために何をしているのだろう

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マーケッティングの側面で考えると
客が口コミで良かったと言いふらすような営業をする
誰も言ってくれない場合は自分で言いふらす

体に悪いと分かっていても塩と油で仕上げる
宣伝にお金をかける
少し売れたら、どうせ何もわからない味音痴の客が大半なのだからと
調味料でゴテゴテに仕上げた料理を高額で売る

この場合
客はすでに宣伝媒体として考えられている

ただ主観的満足に奉仕するのである

そういう側面があるとはいいながら
客の主観的満足とサービス側の主観的満足が
(いろいろな側面があるとは思うのだが包括的に)同じレベルで一致しているならば
もうそれ以上は仕方ないな、という世界である
何か言えるのは親位のものだろう

だから世間一般の理解の低い人種は仕方ないと嘆いているのも
エレガントではない
相対的なものでしかない事は確かなのだ