integrityという言葉があり人間として大切なものと言われることがある

integrityという言葉があり人間として大切なものと言われることがある

もちろん、それが行き過ぎると
原理主義とか原則主義者とかと言われるようになり
硬直した印象をあたえることになるだろう

しかし
たとえば日本の風土のように
クリスマスはキリスト教式
お葬式は仏教
初詣は神道
新築の儀式は神道
厄年なんかもあり
自動車をお祓いしたりもする
結婚式はキリスト教式が好まれ
暦には起源がどの宗教かよくわからないようなものも書き込まれ
まったくintegrityがない

宗教などというものは単なる習俗であって
深く考えるまでもない
というのなら、心底唯物論かといえばそうでもないようである

一体どういうことになっているのか、
比較的原理主義的なアメリカの福音派とかその他いろいろな人達の感覚からは納得出来ないらしい

キリスト教と言っても、原始キリスト教から、カトリックの内部で種々の変遷があり、
実際十字軍などもあり
プロテスタントの時期には結構劇的な変化を遂げて
アメリカにわたってからは、ラジオやテレビで大規模に布教するような人たちとか
なにか怖いような異端的な人たちまでいろいろあって
それこそがよくわからないのだけれども、みんなそれぞれintegrityを保持しようと必死だということは分かる

宗教なんか子供を怖がらせるお話だとか言っている人は、
では、その人の生きる根本の信念は何なのかと問うてみたくもなる

わかりやすいのは現在の中国ではないかと思う
ロシアはソ連崩壊後にロシア正教の伝統が復活したのだろうが
中国でどのような高等宗教があるのかといえばよく分からない
現世の物欲を満たすことだけが信念ではないかと考えると
少し前までの日本とぴったり同じではないかとも思う

新興宗教は教義全般を、現代社会に合わせて、また現代科学と妥協する形に整えることが容易である
アメリカでは進化論と聖書の天地創造を並列した考え方として教えるなんていう話もあって
驚くけれども
新興宗教はそんな手間はかからない

しかし日本の全部を新興宗教が覆っているわけでもない
素朴唯物論をまじめに信じているわけでもない
死後の世界について、神道と仏教で違うことになるのだろうが、あまり気にならないというのは
どういうことなのか、どのようにして心のなかで納得しているのか、不思議ではある

では逆に、多元主義的宗教信仰を持っていて、どの宗教も、
信仰の入り口と道が違うだけで、最終的な「山の頂」は同じである
だからいろいろな宗教のいいところを取り入れればいいではないかというような
高級なintegrityを保持しているというわけでもないと思う

だいたいどの古代民族も宗教的観念と集団支配は重なりあうものに違いなく
現代日本のようにintegrityに欠けた、雑多で貧弱な宗教環境で生きるという事は
人類の歴史としてまれなのではないかと思う

集団の全体は宗教的なintegrityをかなりの程度保持しているが
ごく一部の、精神的に異質、または未発達な人間が、
ドストエフスキーの小説に出てくるような極端な考えを持つというのが
だいたいの人間の典型的な集団だろう

日本人の全体が異質な人だとか未発達な人だとかの論はやはりおかしいと思うので
なにか日本人的な、他の民族では宗教に当たるような、隠れたOSが存在するのではないかと
思って考えてみるがそうでもないようだと思う

韓国ではよく言われるように
儒教的感覚とキリスト教のハイブリッドとなっているものだろうか
そこの部分でのintegrityは日本的に曖昧なのだろうか

中国での唯物論は史的唯物論というもので、宗教否定の論とはまた別なのかもしれないが
なんのために生き、何のためにしに、死んだあとはどうなるのがいいのか、
その辺りに関しては、やはり曖昧なのではないだろうか

そこが曖昧なままで高級な人間とは認められず、せいぜい中学1年生程度ではないかと
カトリックなどには思われてしまってもしかたがないような気もする

これから内面が成長して、自分としてはどのような内的原則を選択するのかという時期を経て、
integrityが確立され、やっと一人前の人間になる、その時点で、
動物ではなく人間になるというわけだろう

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たとえば、戦後の民法が公布されて、
旧民法の、家制度が否定された時、現在のような核家族化と、さらには少子化も
予言されていたかもしれない
当時民法編さんを担当した我妻先生とかは、結構悲観的なことを考えてもいたらしい

新型民法を作った時に、当然、アメリカやヨーロッパで、またその他、植民地で、
同じような民法が施行されていたけれども、
それらの国々では宗教という土台があって、その上に、民法が乗るという形だろうと思う
家族のあり方を規定するのは宗教であって、民法は微調整であるという感じではないだろうか
ところが日本では民法が家族関係を決定する基本原則になってしまった
この辺りの事情も、法律体型を輸入する場合に不都合が起こる一つの例ではないだろうかと思う

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そんなこんなを考えると、
たとえば、仏教、神道、キリスト教のイイトコどりをするとしても、
何がいいところなのかという原則があるはずで、
その原則を提示する何かがあるのではないか、
それが日本人の根本を規定している何かではないか、
だからキリスト教徒の信仰のある場所とは少し違うのだろう
プロテスタントかカトリックか仏教かと考えるのがアメリカ流であるが
それらを一括りのものとして、いいところを生かせいばいいという流儀の
通常ならば信仰に相当する何かがあるものなのか
それとも本当は何もなくて、それで済ませているものなのか
不思議ではある
ここあたりを日本人論の糸口としてもいいように思うがどうだろうか

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キリスト教の発展経過を説明する場合に、
文明の発達条件に応じて、つまり、生産能力とか、個人の自立した生活の可能性とか、
あるいはかなりの集団主義が生きるために必要だったかとか、そのあたりで
かなり説明できるのだと、宗教学者の一部は考えている
実際その論文を読むと、よく説明できていると思う

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日本人の宗教の場所に居座っているのは空気かもしれない
同調圧力である
労働法よりも同調圧力が優先でサービス残業が正当化される
しかしそれは生きている理由も、死ぬ理由も、死後の世界も、説明してくれない
動物はそれで生きていけるだろうが
人間は生きていけるのだろうか
それでもやはり、同調圧力は若者のすべてを支配していのである
2015-02-08 02:31