“吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を解説した丸山真男の文章の中の、知識と倫理のあり方をめぐる教育論だった。頭がいいことと頭が悪いこと、人格がいいことと悪いこと、この二つは決して無関係ではなくて、密接に関係した問題であることを二人の討論は示していた。世界の客観的認識というのは、どこまで行っても主体のあり方の問題と分かちがたく結び合わさっているのだと丸山真男は言っている。つまり、主体の倫理的な態度を欠くとき、客観的認識というものは得られないのだと。今回の問題は、安倍晋三だけでなく、一人一人に突きつけられた

"吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を解説した丸山真男の文章の中の、知識と倫理のあり方をめぐる教育論だった。頭がいいことと頭が悪いこと、人格がいいことと悪いこと、この二つは決して無関係ではなくて、密接に関係した問題であることを二人の討論は示していた。世界の客観的認識というのは、どこまで行っても主体のあり方の問題と分かちがたく結び合わさっているのだと丸山真男は言っている。つまり、主体の倫理的な態度を欠くとき、客観的認識というものは得られないのだと。今回の問題は、安倍晋三だけでなく、一人一人に突きつけられた問題であり、それぞれが考えて、戦争の歴史についての善悪の判断を出さなくてはいけない問題なのだ。ポツダム宣言をあらためて読み直すことが、国民一人一人に求められているのである。
「コペル君というあだ名の由来であるこの事例の意味づけは全編の主要主題として流れているのですが、地動説は、たとえそれが歴史的にはどんなに画期的な発見であるにしても、ここではけっして、一回限りの、もう勝負が決まったというか、けりのついた過去の出来事として語られてはいません。それは、自分を中心とした世界像から、世界の中での自分の位置づけという考え方への転換のシンボルとして、したがって、現在でも将来でも、何度も繰り返される、また繰り返さなければならない切実な『ものの見方』として提起されているのです。(略)地動説への転換は、もうすんでしまって当たり前になった事実ではなくて、私達ひとりひとりが、不断にこれから努力して行かねばならないきわめて困難な課題なのです。そうでなかったら、どうして自分や、自分が同一化している集団や『くに』を中心に世の中が回っているような認識から、文明国民でさえ今日も容易に脱却できないでいるのでしょうか。つまり、世界の『客観的』認識というのは、どこまで行っても私達の『主体』の個の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結び合わされているのだ、ということを、著者はコペルニクスの『学説』に託して説こうとしたわけです」(岩波文庫 P.317)。ここでの「地動説」は、ポツダム宣言に読み替えられる。ポツダム宣言は、決して過去の歴史の問題ではないのだ。"
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なつかしいコペル君。
私の現状認識で言えば、
頭がいいことと頭が悪いこと、人格がいいことと悪いこと、この二つは決して密接に関係しているものではない。
いろいろな組み合わせがあるだけだ。