待賢門院障子と白河法皇

西洋では「恋愛」はI2世紀に吟遊詩人が発明したものだという。日本では、額田王が袖を振った飛鳥時代から恋愛が存在した。平安時代の金字塔である「源氏物語」から近代の能、歌舞伎、文楽、浮世絵、黄表紙にいたるまで、日本文学のメインテーマは恋愛である。
男女間の対等の関係 (どちらかが愛を告げて、他方がこれを受け入れるか拒絶できる)がなければ恋愛は成立しない。古代社会では家畜や財産の類いと考えられてきた女性が男性に隷属せず、自由意思で配偶者を選べることは画期的な出来事であろう。
愛さえあれば年の差なんて平安時代、宮廷貴族たちにとって、恋愛が国家経論よりも民草よりも重要な関心の対象となった。しかし、美しい奔放な女,陛と最高権力者の恋が内乱に発展したのは、待賢門院障子と白河法皇の場合だけだと思う。
平安末期にいわゆる院政を始めた第72代・白河天皇 (真仁親王)は、天喜元年 (1053年) 6月l9日に尊位親王の皇子として生まれた。「平家物語」では、「賀茂河の水、双六の賽、山法師」是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたと記しているが、逆にいえばそれ以外のすべてのことが思い通りだった。女性関係においても自由な立場だったが、5人の親王・内親王をもうけた中宮・賢子が若くして死去すると、その嘆きは一方ならず、有名な祇園女御(一説に平清盛の生母とされる)ほか数多の美女に囲まれながら、真に愛するべき女性は現れなかった。
ところが法皇55歳にして、祇園女御が養女に迎えた藤原公実の末娘・障子 (7歳)をいたく気に入り、源氏物語に出てくる紫の上のように第一級の淑女として育てる。しかし10年後、年頃になった障子を関白・藤原忠実の長子・忠通に嫁がせようとするが、イエスマン忠実もこれだけは頑なに断る。境子と養父である法皇との関係はすでに貴族社会のうわさとなっており、藤原氏嫡流のプライドが許さなかった。そこで法皇は、障子を何と孫の鳥羽天皇 (14歳)の中宮とする。しかし、障子も年下の夫がものたらず、頻繁に"実家"である法皇の宮殿に里帰りする。そして、元永2年 (1119年)5月28日、第一皇子・顕位親王 (後の崇徳天皇)が生まれた。この時、障子18歳、法皇66歳。
鳥羽天皇は、この、社会的には自分の子であるが、実際は祖父の子である長男を「叔父子」と呼んで忌み嫌った。後に平清盛、源頼朝らと権力闘争を繰り広げた後白河天皇は、崇徳天皇と同じく境子を母とするが、父は鳥羽上皇である。鳥羽上皇が53歳で崩御すると、もともと仲の悪かった崇徳上皇と後白河天皇は、各々を支持する公家や武家を集めて保元の乱を勃発させた。さらに平治の乱、源平合戦、そして鎌倉幕府による武家政権の樹立につながっていく。
歴史学者の角田文衛氏は、当時の記録から中宮が28日ごとに里帰りし、崇徳天皇を懐胎した時期に関係を持ったのは白河法皇以外にありえないと論証している。不倫文学の第一人者渡辺淳一氏は 「天上紅蓮」で、法皇と障子が計画的に会って、いわゆるタイミング法で子をなしたとしている。月経周期や排卵のメカニズムを明らかにしたのは「オギノ式」で知られる20世紀の日本の医学者・荻野久作であるが、基礎体温はともかく、妊娠しやすい時期については当時でも経験的に知られていたのかもしれない。
障子は前述の、保元の乱の10年前に亡くなったが、わが子たちの骨肉の争いを見ないで済んだのは幸いだろう。残された肖像画から障子が大変な美人で頭もよく、権力者・白河法皇が虜になったことは理解できる。したがってって法皇が彼女を孫に押し付けたりせず堂々と恋を成就していればその後も貴族社会が続いていたかもしれない。もちろん民衆のことなど考えもしなかった貴族政治がよかったかどうかは別問題である。