15で嫁に行った赤とんぼの頃

いかにして過去と決別するか

主観的になかったことにしてしまう方法もある
それが精神病

解釈を変えて温存するという方法もある
それが神経症

それが現実なのだとさっさとうけいれて、そこから出発する方法もある
それが健康
まあ、みんなそうしたいのだが、できないので困っている
そんなに強くない

昔はよかったというのではないが
最近はいじめもきついし
親の虐待もきつい
夫婦げんかもきついし
上司と部下もきつい

昔は牧歌的でよかったとだけ言うつもりはないが
現代は対人関係としても、個人が人生を切り開いていくにしても、
昔よりも困難な場面も多いのではないかと思わざるをえない

子供の頃に病気で死ぬとか
どうしようもないほどの貧困が襲うとか、たとえば飢饉という言葉
自然災害もきつかっただろう
また因習、無知蒙昧、恐怖宗教の支配など、そういう意味での昔を考えると
昔は昔で大変だっただろうと思うが

現代日本はある程度健康を維持できるし、極端な貧困も回避できるし、
しかしその上で、心理的にどうしようもなく傷つく時代なのだと思う

昔なら村のガキ大将で問題なかったのだろうけれども
現代では情報が広く伝わり共有されるので
ガキ大将になるにも広範囲な勝ち抜き戦が必要になる

昔なら関東のガキ大将と四国のガキ大将は
それぞれにすごいと言って伝説で終わっていたものが
現代では直接比較し、どちらがガキ大将か決めることもできる
ガキ大将になる頃にはぼろぼろである

あなたは傷ついていませんか、傷つけられていませんかと
盛んに宣伝し、やっぱり傷ついていますよねと
余計なおせっかいを焼く人達もいる

まず水子の祟りをお清めしましょうなど
おせっかいである

貧しい家の長女に生まれ
幼い弟や妹達を親代わりになって世話をして子供時代を過ごしてしまい
「赤とんぼ」の唄のように15で嫁に行き
また家事と農業に明け暮れる
姑は難しい人で夫は酒浸りである
産んだ子の半分は病気で幼くして死に
自分自身も原因も知らず病名も知らない病気で死んでしまう
そんな人生
しかし現代的な不幸と比較してどうなのだろう
比較してどうなるものでもないし
比較するというのもしかたのないことではあるのだが

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過去を想起させるものから物理的に離れるという方法はある
健康な忘却を利用する方法である

しかしいずれにしても現在の自分を作っているものの一部は
過去の経験なのだから逃れることはできない
繰り返し夢に見るのはそれが自分の一部だからだ

実際とは別の理想的な過去が可能だったかもしれず
そのことを考えると後悔は果てしない

人間は成長することができるし成熟することもできる
理想は人間を高みにおし上げるが
挫折は人間を深みに誘い成熟の機会を与える

挫折したままでいたほうが楽だし
その原因が外部にあると主張して聞いてくれる人がいるうちは
外部原因説を繰り返し主張するのも人生の一時期としてはいいのかもしれない

しかしいずれその主張そのものが
自分の人生を意味のないものにし、成熟に欠けたものにした原因だと知るだろう

辛さからの一時避難所はさらに辛い未来を用意する場所だったということも
可能性としてはないではない

幸いにして人生はそれなりに色々なことがあって進行するものなので
嫌な記憶を上書きして新しい記憶で置き換えてゆくことはできる

親子のことで苦しんだ子供は
親になることで記憶を上書きして緩和することができる

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過去が形のないもので、測定することができないものであることも問題だ
記憶の中でどんどん変形する
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