“困ってしまうのは、客観的な記述はいかにして可能かという問題です。 文章で記述する場合、それが事実をどの程度正確に写しとっているのか。 たとえば写真の場合なら、ボタンを全部オートにして、シャッターを押す それはそれで一種の客観的ではありますね そのあとでフォトショップでいじったりするのに比較すれば しかしその場合でも、カメラの機種によってオートの設定も違うし、 レンズの種類も違うので、 出来上がった画像から、事態を想像するにはまた、完全な客観性というものでもないだろうという 問題は残る 事象そのも

"困ってしまうのは、客観的な記述はいかにして可能かという問題です。
文章で記述する場合、それが事実をどの程度正確に写しとっているのか。

たとえば写真の場合なら、ボタンを全部オートにして、シャッターを押す

それはそれで一種の客観的ではありますね
そのあとでフォトショップでいじったりするのに比較すれば

しかしその場合でも、カメラの機種によってオートの設定も違うし、
レンズの種類も違うので、
出来上がった画像から、事態を想像するにはまた、完全な客観性というものでもないだろうという
問題は残る

事象そのものではないのだからどのような形で記録したとしても
いかにして事象そのものにたどり着くかという問題は残るわけですが

しかしまあ、水族館に行ってきたとして、そのビデオを見れば、
あのときの体験は、ということで思い出せることが多いのだろうとは思う

それと比較して、水族館の作文だとどうだろうかということになる
芸術的作文ならば、それが何を喚起しようと構わないのだが
たとえば医学的な記述ということになると、
できるだけ書き手の主観や癖を排除して、
客観的、公正、中立、事実を再構成した時に、正確に事実にたどり着けるような記述が理想的だ

そのような記述はいかにして可能であるか

多分不可能なんだと思う
話が通じるのは少数の専門家の間でのみだろう

同じ英語を使っていても理解はかなり違うし
日本語だと使用する人の常識も英語ほどの違いはないように思うが
しかしコミュニケーションは絶望であると信じるに足るだけの状況は発生する

一番通じやすいのは、業界のジャルゴンである。少数の人にしか通じないが、
それを表現した人が何を伝えたいと思ったかについては、誤解なく通じる。

まあ、つまりは、記録することも、再生することも、絶望的に、無理なことなんだろう。
でもなんとか記録している、再生していると思っているのは、共同体の共通認識ゆえである。"