“ 世間から差別語が退治されるようになってから、世の中に「かわいい」が氾濫した。 そういう符牒もある。 その結果かどうかは知らないが、日本はそれをきっかけに物差しの目盛が粗い、棒読みの世の中になっていったのである。 ” ーーー “憂鬱も不安も狂気も、ずっと昔から人類の歴史に寄り添ってきたはずだ。” ーーー “「本」 本を読むならいまだ 新しい頁をきりはなつとき 紙の花粉は匂ひよく立つ そとの賑やかな新緑まで ペエジにとぢこめられてゐるやうだ 本は美しい信愛をもって私を囲んでゐる” 愛の詩集~室生

世間から差別語が退治されるようになってから、世の中に「かわいい」が氾濫した。
そういう符牒もある。

その結果かどうかは知らないが、日本はそれをきっかけに物差しの目盛が粗い、棒読みの世の中になっていったのである。

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“憂鬱も不安も狂気も、ずっと昔から人類の歴史に寄り添ってきたはずだ。”

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“「本」

本を読むならいまだ
新しい頁をきりはなつとき
紙の花粉は匂ひよく立つ
そとの賑やかな新緑まで
ペエジにとぢこめられてゐるやうだ
本は美しい信愛をもって私を囲んでゐる” 愛の詩集~室生犀星詩集~

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“再読は、物語が一度消費(《むさぼり読み》)されたら、他の物語に移り、他の本を買うことができるよう、その物語を《投げ捨てる》ことを勧める現代社会の商業的イデオロギー的慣習に反した操作であり、それはある周辺のカテゴリーに属する読者たち(子供、老人、教師)にしか許されていないが、ここでは、再読はただちに提起されている。なぜなら、それだけがテキストを繰返しから救うからであり(再読を軽んずる人は、到る所で、同じ物語を読まざるを得ない)、テキストをその多様性と複数性の中で増殖させるからである。
…再読は、最初の読書が基本的で、素朴で、現象的な読書であって、後はただ単に《説明》したり、知的な解釈を加えたりすればよいだろうというような思い上がり(あたかも読書にはじめがあるかのような、すべてがすでに読まれていなかったかのような。最初の読書など存在しないのだ。たとえテキストが、説得的というより見世物的な技巧であるサスペンスといういくつかの操作子 opérateur によって、そうした幻想をわれわれに与えようと努力するとしてもである)を認めない。”

ロラン・バルト 「S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析」