“ ちょっと前に、自分の頭頂部が薄くなっているのを発見した。そのときに、俺はかなり爆笑したと思う。スーパーのエレベーターホールにある防犯カメラで、自分を頭上から映した映像を見ることができた。そうすると、頭頂部が薄くなっていた。なにがおもしろかったって、自分自身のことなのに、それが防犯カメラを通じないと発見できなかった、ということに対してだ。そして本質的にもっとおもしかったのは、自分が主体的にまったくなにもしなくても、肉体は老いるということだ。人間は勝手に変化する。かつて自分が見ていたおっさんといういきもの

“ ちょっと前に、自分の頭頂部が薄くなっているのを発見した。そのときに、俺はかなり爆笑したと思う。スーパーのエレベーターホールにある防犯カメラで、自分を頭上から映した映像を見ることができた。そうすると、頭頂部が薄くなっていた。なにがおもしろかったって、自分自身のことなのに、それが防犯カメラを通じないと発見できなかった、ということに対してだ。そして本質的にもっとおもしかったのは、自分が主体的にまったくなにもしなくても、肉体は老いるということだ。人間は勝手に変化する。かつて自分が見ていたおっさんといういきものに自分もまたなったのだ。その時間の経過そのものがまことにばからしい。10歳の自分から見た40歳はまぎれもなくおっさんだったはずで、30年にわたって連続していたはず(というのは信仰の一種かもしれないが)の自分の意識が、それを40歳になってから発見する。こんなにばからしいことはない。これを娯楽と思わなければ損をする。老いていくことも、病苦に苛まれることも、死の恐怖も、すべては娯楽だ。たとえどんなに苦しいことであろうとも、それ自体が本質的には娯楽なのだ。なぜならば、人間は変化がまったくないことに耐えられないから。細胞レベルで変化「せざるを得ない」もので、それは成長だろうが進化だろうが、老化だろうが退化だろうが同じことだ。
 俺は俺に対し、老いていくことを娯楽とすることを義務づける。知らないことを知ることは、すべて娯楽であると定義づける。俺はいままでもそうしてきたし、それが自分自身に関することのみ例外であるというのはおかしい。”
 
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何にしてもとりあえず生きていけるように現状をなるべくマイルドに再解釈して取り込んでゆくのだろう
老いも死も娯楽であると考えようとするのも心の防衛機制であり、ある種積極的で現実的な種類の防衛機制だと思う

老いた我が身を鏡で見れば、しばらくは衝撃であるが、それも薄れ、馴染んでくるものだ
体力の衰えも何かの機会に突きつけられるのであるが、それもまた馴染んでくる

その向こうには認知症という、現在を無化してしまう絶対の状態がある

現在、認知症とMCI・軽度認知障害(Mild Cognitive Impairment)が
それぞれ460万人(15%)、400万人(13%)
こんな現実も、なるべく見ないようにしつつ、見てしまったときは早く忘れ、
毎日見なくてはならなくなったら、なるべくマイルドに解釈し直す