精神の決定論

現実の人間の行動や思考や感情を理解したり説明したりするに当たって
どの程度の仮説を用意すればいいのか
昔からの蓄積がある

無限に用意すれば無限に説明できるが
それでは頭が悪いので
なるべく少ない原則で説明しようとする

そうするとまず観察の密度というか精度が問題になる

粗雑な観察を説明するなら少数の仮定で十分だし
かなり精密な観察を説明するとなるとそれなりに複雑な仮定が必要になる

成功した理論というものは
なるべく少数の仮定で、なるべく精密な説明をするものだけれど、
人によって十分な観察精度も違うし、求める説明の精度も違うわけで
たとえばニュートン力学でロケットの軌道を計算するのとは大分趣が違う

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理論で用意された少数の仮定がどのように成立するのかを考えると
時間の軸が入り込む
最初にDNAがあって
環境要因としての風土や他者がある
そのように考えていくと
現在は無理だけれど
将来、ますます精神についても決定論的な思考になるのではないかと思う

いろんな思索家のいうロマン主義的なお話しは楽しいし
私は自分の子どもには
そのような話だけ聞かせたいけれど
分別がある限り、いつまでもそういうわけにも行かないだろう 

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人間は生育の初期条件を自分で選択できない
環境を選択するくらいに成長したときには
もうすっかりその環境に染まっているので
どうしようもない

まあ、その方が「環境への適応がいい」と言えるわけだし
問題も悩みもなく生きていけるのだろう

悩みのない愚劣な人生と
悩みの多い高級な人生と
どちらがどうとも言えない
悩む人は何が高級なんですかと悩むわけだし
悩みのない人は、それでも、自分なりには結構悩んでいると自覚している

深い意味でも浅い意味でも考えても仕方が無いのだから
考えなくてもいいとも思える

幸せを決めるのは
むしろ
最初から持って生まれた気質の部分なのだろうと思う
その気質と職業や環境が適合していれば良いだけなんだろうと思う