主観的感覚の表現

患者さんとか患者さんでない人とか
人々が自分の主観的感覚について表現する場合に
結局大まかには言葉で表現するしかないので
そのあたりに非常に困難がある

頭痛とかめまいとか幻聴とか

言葉を個々の人間の内部でクリエイトするというのは
伝達可能性を考えると限界がある

他人に伝わる共通の言葉で語るしかない部分がある

その場合にはやはりどこかで他人の言語活動を参考にして
自分の主観的体験を言語化していると考えられる

するとその人の言語活動の範囲や特殊性が直接に影響してしまう

古い書物などを読むと
症状らしきものが書かれてはいるものの
随分と言葉遣いが異なるし
外国語だとなおさら異なる

最近のようにサブカルチャーの細分化と広範化が進行すると
それぞれの文化の内部での言葉遣いがあって
その人はその範囲でしか表現しないことになる
複数文化を承知している人はだいたいの範囲としても相手の文化に合わせて表現を工夫することもある

なにしろその人はその表現を当たり前だと思っている

結局、私達はこんなふうに表現しているんだけど、
という前提で話していることになる

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文字も最近の人は
一文字を一つのマス目に書くということをしないで
そこを崩して書いている様子だ
それも流儀なのだろう

漢字というものはまとまりのある形なのであって
それを分解して書いているともどかしい感じがする

ゲシュタルトがほどけている

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その人にとっては共通言語なのだが
話しかけているその人にとっては理解が届かない言語であるという場合もあるようで
通じているのかどうかを確認する方法もはっきりとはないわけだし
難しいものだと思う

人と人とが
理解し合えないという場合、たとえばコミュニケーション障害とか、あるいは感情のスレ違いとか、
チューニングの失敗とか、色いろあると思うが
そのような事情もあるのではないかと思う