長い間、悪徳商法問題を扱っているとね、「善意」というのがとてもやっかいなものだと

“長い間、悪徳商法問題を扱っているとね、「善意」というのがとてもやっかいなものだとわかるように成るんですね。「良かれと思って」やったことが良い結果に成ればよいけど、悪い結果になることを沢山みてしまうのね。そして、その時に起きる諍いというのは「良かれと思って」やった分だけ辛いものなんですよ。「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が身にしみるのね。
今のご相談とは少し関係の無い話だけど、善意ということの怖さを説明するのに、昔にあった「ダンシング事件」というのの話をするのね。5万円くらいの布団を30万円くらいで売った「ダンシング」という会社があったのね。もちろん普通じゃ売れないよね。「この布団を30万円で買って頂くと毎月モニター料をお支払いします」というモニター商法ね。最後までモニター料を貰うと払う代金よりモニター料の方が高くなるような話ね。この会社がずる賢いのは、最初に契約した人には1年半くらいの間モニター料を払い続けたということね。そしてすっかり「得な話」と信じ込んだ初期の契約者に親戚や知人を勧誘させたのね、数千円の紹介料を払ってね。でもって1万人以上の契約者が購入したところでドロンしたわけ(捕まって詐欺罪にはなったけどね)。この被害者が集まって、ローンの無効を訴えた集団訴訟の被害者の会というのは大変だったんですね。なにせ、勧誘した人も勧誘された人もどちらも被害者だからね。勧誘した方は「悪気は無かった、良かれと思った」だし、勧誘された方は「お前が勧誘しなければこんな被害には遭わなかった」だからね。そういう内部の諍いをなんとか納めて集団訴訟をした訳だけど、或る意味で「地獄」と言えるのかも知れないよね。
何が言いたいかというと、ものごとを「人の善意、悪意」で考えるのは或る程度に留めておいた方が良いという事ね。人は間違ったことを信じてしまうこともある生き物だし、そして「善意」でその間違ったことに人を引き込んでしまうこともある生き物なのね。なんていうかな、人に勧められたことに従うときに、その結果を悪い方向に予測してみて、その最悪の時でも「まあ、良かれと思って言ってくれたのだから」と許せる範囲の時だけ、判断の基準を「善意、悪意」において判断しても良いけど、そうで無いときには勧める人の善意なんてのは判断の基準にすべきではないということね。
まあ、年寄りの無駄話だけどね。”
ーーー“とりあえずアメリカでは、本というものは末永く読まれてこそ作る価値があるモノとされている。っつーか、そのために「本」にするんだよ、ってな。今出さなければ売れないものは本の編集者ではなく、雑誌や新聞が、それこそウェブが取り組むべきことであって、本を作る人間が考えなくてはならないことではない。今、こういう本があったら売れるだろうな、と考えるのはたいして難しくない。そんなの編集のプロじゃなくてもわかるだろ。群れと一緒にミーハーなこと追いかけてればいいんだから。そうやって、せっかく何か他とは違う、目新しいものを掘り起こした人の手柄をむしり取って、俺にも稼がせろと群がる。結局そうやって目新しいモノも手垢にまみれ、陳腐になる。反対に、アメリカの編集者は少なくともこれから1年半〜2年後に読まれそうな企画を考えなくてはならない。入稿してから刊行までに少なくとも半年はかけて、じっくりマーケティングのプランを立てなければいけないからだ。ノンフィクションの本なんて、企画で買ったら、入稿は半年後、ってのが普通。
そしてできればその後もずっと絶版にならず、コンスタントに売れ続ける「バックリスト」の本を作ることを期待されている。ガーッと売れてガーッと売れなくなる本よりも、長期的に粗利が多いからだ。こっちの方が大変だ。時代の波がどちらに向いていて、何が本という形で残っていくべきなのか、いつの時代にも色あせないメッセージを語れる著者は誰なのかを見極めなければいけないのだから。だから、バックリストでロングセラーになっている本をたくさん持っている出版社の方が経営も安定する。
著者は著者で、エージェントを付けなければ編集者に相手にしてもらえない。エージェントは芸能人のマネージャーみたいなもので、印税からコミッションを取る代わりに、著者の才能を引き出し、最大限に活かせるキャリアプランを立ててやるのも仕事だ。本と言えども締め切りはバッチリ契約書に書かれているので、「そのうちね」などとテケトーな予定の著書はない。すっかすかで中身の薄い本を次々と出すなんてことは、エージェントが許さない。シリーズもののスリラーの著者でも1年に1冊出していれば、ファンはついてくる。”—  出版バブルは自業自得、流行を追う者はやがて廃れるだけ—No tears should be shed for insta-hits | Books and the City
US, UKのいわゆる文芸ものはそうだよね。ただ、日本でも村上春樹や大江健三郎レベルになれば、US, UKのエージェントモデルに近いかも。
またもちろん、USやUKでも自己啓発書やビジネス本のたぐいや宗教系・オカルトやラブロマンス系のトラッシュ本には日本と同じような流行だけのバカ本がかなりある。Time managementがなんちゃらだとかGTDがどうたらだとか。あと、サラ・ペイリンの自伝なんかも典型的な流行だけを追ったバカ本だよね。
一方で、日本の出版は流行を追いがちなトラッシュ本が多いというのは事実で、たぶんそれは大原さんが書いているように、本を金融として流通させる取次モデルのために、最低限ある量の出版数を確保しないと自転車操業としての出版ビジネスを回せない、というのが一番大きいと言われている。数を確保するためには、当然その数を出すことが期待できる著者に依存しがちになるし、本を書く敷居がとても低くなる。
ここまでは供給側の事情だけれど、実は需要側の事情というのもある。日本ではUSやUKのような本をよく読み、本をよく買う知識階級という層がそれほど明確でない。USやUKはブルーカラーや貧困層はまったく本を読まないからね。日本は、識字率が高いということもあり、本を読む側の知性水準が層化されないから、当然本を買う層の知性水準の期待値みたいなものがUSやUKに比べてどうしても低くなる。
このより低い知性水準の期待値に向けて、供給側が数を稼ぐためにリソースを投下するから、どうしてもモギ・カツマバブルみたいなものが起きるんだよね。これは供給側の事情と需要側の事情が固く結びついたある種の生態系みたいなもので、本当にイヤだけれど、もう仕方がないとしか言いようがないね、現状は。
ーーー“2001年、バージニア工科大学の歴史学者ロジャー・エキリッチは、過去16年にわたる研究により、人間は本来「二度寝」をしていたという歴史的証拠を大量に集めた著書「At Day’s Close: Night in Times Past」を出版。これによれば昔の人は夜中に起き出してトイレに行ったり、タバコを吸ったり、なかには近所の人に会うために出かけていく人もいたそうで、寝ている途中で起き出して活動することは昔は「ごく当たり前に」行われていたのだそうだ。”—  人間に適した睡眠パターンは「二度寝」である
ーーー“ミツバチへの悪影響が懸念されているネオニコチノイド系農薬のうち2種類が、低濃度でも人間の脳や神経の発達に悪影響を及ぼす恐れがあるとの見解を、欧州連合(EU)で食品の安全性などを評価する欧州食品安全機関(EFSA)がまとめたことが2日、分かった。”—  ミツバチに毒性懸念の農薬、人間の脳にも影響か http://t.co/9X7PBGEqAA
— 日本経済新聞 電子版 (@nikkeionline)
2014, 1月 2
ーーー“10人でコメを作っていたとしよう。真面目に働いて、効率化を達成し5人で10人分のコメが作れるようになった。これは素晴らしい。でも、10人が真面目に働いて、コメを作ったら20人分できてしまう。作っても売れないので、安売りしてさらに効率化を目指す。これは明らかに悪循環。効率化して5人余ったら、余った5人は海にでも遊びにいきなさい。海に行ってナマコでも捕ってこい。ナマコが食えることを発見した奴は偉い。ナマコを捕ってきて、コメを作っている人に「これ旨いんだよ」と高い金でナマコを売りつける。そして、その金でコメを買って初めて経済が回る。
大学では、コメの作り方は教えられる。しかし、新種のナマコみたいなものがどこにあるかなんて、誰も知らない。だから、若い学生をカリキュラムで締め付けて、教室に閉じ込めておくのはナンセンス。彼らに自由なことをやってもらわないと、日本が沈む。”— 
こういうときにいつも例に挙げられるのはナマコだが,個人的には一体どういう経緯でコンニャクを常食するに至ったのか,の方が興味がある.で,コンニャクの加工法を確立するには,おそらく,やった本人の努力創意工夫に加えて,社会全体での知識や技(今風に言えば“化学”に相当?)の蓄積が不可欠であり,大学はまあそういう役割は十分果たし得るんじゃないかと思います,まる
ーーー“一般に知られる精神分析の「快感原則 vs 現実原則」の図式をフロイトは信じていない。もし人間の奥底にあるのが、快感を求めようとする幼児的な性向であるなら、戦争体験者が頻繁に「自らの死」をフラッシュバックするわけがない。夜、汗まみれになり悪夢から目覚める日々を反復する。フロイトが『快感原則の彼岸』で描いているのは、こうしたPTSD系の症状をどう読み解くかである。人間の無意識に潜む狂気は「自らの死」を望んでいる。この気味悪さ、おぞましさに分け入るのがフロイトの真骨頂と言える。”
ーーー“・国と地方を合わせた日本国の行政経費は年間約200兆円で、これを15歳から65歳までの生産年齢人口8000万人で割ると1人あたり人頭税は年間約250万円になる。いうまでもなくこれはほとんどの人にとって支払不能だから、応益原則を採用すれば、国家の規模を縮小する以外に選択肢がないことが誰の目にも明らかになる。”
ーーー“昔、若い漫画家から「ボク、水木しげると横山光輝が読めないんです」と言われた事が。絵柄とか内容の問題ではなく、内容が頭に入ってこないのだと言う。読字障害とかでなく、セリフと絵とコマとコマのシーンの流れが繋がらないと。水木先生はともかく、横山先生の職人的構成力をひたすら尊敬する自分としては、ぽかんとしたんだけれども、それはキミの好みだよと切り捨てるには、チョット引っ掛け部分もあって、以来ずっと考えているんですが。一つの仮説として、お二人の作風のルーツに、紙芝居があるからではないか、と。
手塚治虫以来、日本の漫画は映画的な手法をコマの中に落とし込む方向で進化してきたわけで。それが主流派になったから忘れ去られがちだけど、日本の表現の文化としては、実は紙芝居やそれに連なる系譜の表現というのは確実にあって。映画的な表現が流れを追うのに比較して、紙芝居は異なる。
ちょっと乱暴な事をいえば、映画的な表現はアニメの原画マンの絵に当たる、動きの起点と終点部分の絵の中から、さらに絞り込んでセレクトしたカットと台詞を組み合わせて物語を進行させるのに近い。対して紙芝居は、そのシーンの中の象徴的なシーンを切り取って、そこに台詞を載せる感じか。
紙芝居は絵本的な表現に話芸が加わる物だけど、落合信彦氏の父親がひとつの紙芝居で適当にいくつもの話をでっち上げたように、象徴的なシーンを抽出した物なので、そこで物語を組み替える事が比較的容易。逆説的に、その象徴的な絵と絵の間のシーンは、見聞きする側がイメージして補う部分が大きい。
で、冒頭に戻って。その視点で見ると、元々紙芝居を描かれていた水木しげる先生はもちろん、横山光輝先生の作品もナレーションが多めの作品では紙芝居的な象徴的なカットに載せる感じで、手元にある本だと『時の行者』の紀ノ国屋文左衛門の回とか、割とそんな感じが。たぶん、そこらが読めない理由か。
落語を見せても、着物きた人が首を左右に振りながら喋っていると認識する人は、その外面だけを見ているわけで、そこで表現されている物語のイメージがわかない人は面白さを理解するのは難しい。例えば『風呂敷』という演目は、上手い演者だと押入れからヨロヨロと這い出た間男の姿が浮かぶほど。
主観表現の漫画は本来、絵本や紙芝居的な象徴的なシーンのカットに、時間表現の映画的な表現手法を取り込んで発達してきた部分があるわけで。ところが、そこら編が進みすぎた結果、先に書いたアニメの原画的な素材の中で、従来は省略されていた部分が、そのまま描かれるような表現が増えたような。
そのような、時間表現的手法の作家は、代表的な存在が大友克洋氏であろうか。氏の作風を非手塚的と評する人もいるけれど、実際は手塚的な映画手法の落とし込みの流れの中に位置付けられる訳で。それは昭和35年生まれ以降の、テレビが身近にある世代によって更に発展して行くことに。
しかし、菊地秀行先生が「大友克洋は漫画が下手」と評したように、時間表現的な表現手法が発達しすぎた結果、従来の表現手法からすれば省略しても良いカットが大量に残り、表現の冗漫化が起きてしまっている。でも、コレに慣れてしまった世代には、水木先生や横山先生の作品が読めない、ということに。
自分がこういう視点を持つようになったのは魔夜峰央先生が、普通の人間が8コマで表現する物を、山上たつひこ先生は4コマで表現している、と評されてから。これは映画やアニメ的な、動きの起点や終点を追いかければ8コマかかる物を、省略して4コマにするのが漫画的表現とも言える、ということ。
自分が尊敬するある漫画家も、魔夜先生のファンなのだが、この話をした時にしばらく考え込んで、「そう言えばアニメのパタリロを見た時、漫画のスピーディさが失われているような」と。漫画だとバンコランの悪口を言ったパタリロが、次のコマではボコボコにされた姿(結果)を見せる事で省略可能。
ただ、気をつけないといけないのは、漫画的な省略というのは、1・2・3・4・5・6・7・8という時間表現を、1・3・5・7や2・4・6・8と摘めばいいかと言えば、そう単純ではない点。1・2.4・2.8・8のような、摘まみつつも別途加える事で8コマを4コマにする表現力が必要。
ここら辺は、漫画家は割と感覚的に処理しているし、また優れた漫画家は落語のようなイメージ力が必要な表現のファンが多く、紙芝居的な象徴的なシーンを無意識に抽出する能力にも秀でていたりするけれど。CDやデジタルデータで育った世代に「巻き戻し」と言っても肉体的実感が伴わないという問題が。
ただ、大学で18~20歳ぐらいの、アニメで育った、時間表現が当然で漫画的な省略ができない世代でも、ジャンプの某漫画をテキストに、このページのこのコマとこのコマが無駄で、この3コマをこんな1コマに表現し直せばよりスピーディでしょ、と説明してやると、コツがわかる子がけっこういる。
たぶん、ここら辺の表現技術については、自称漫画研究者とかには無理だし、理論化はもちろん一般化もできない。いわんやドリル化など…。金平守人先生の『エロ漫の星』の中に、その一端が描かれてはいるけれど、これは師である石川サブロウ先生から伝承された、本来は門外不出の技術だし。
ビッグ錠先生の漫画で、東京から関西に来た料理人の味付けが、関東と関西の融合で微妙なバランスだったのが、関西の味付けでで生まれ育った弟子の代ではその東京の要素が継承されず、東京から来た主人公の方が技術的には劣っていても先代の味付けに近い、という逆説が描かれた話が描かれていたけれど。
漫画が存在しないところから立ち上げた第一世代と、手本とすべき物があって、洗練させる第二世代とは、同じようなバックボーンの違いがあるわけで。手塚の影響を受けた第二世代は、テレビもアニメもほぼなかった世代で24年組もこの世代に加えていい。35年生まれ前後~45年生まれ前後が第三世代。
漫画的には第三世代で、なおかつオタク第一世代でもある自分らの世代が、テレビもアニメもなかった世代と生まれた時からそれがある世代の、狭間の世代として文化伝承の役割を負うべきだと思うし、そのためには一度、漫画表現の発達史や表現の整理分類が不可欠ではないかと。拙著はその第一歩でもある。”
ーーー“ 1 自分の価値を証明することに駆られる燃え尽きの最初の段階としてよく見られるのは、自分の価値を証明したいという欲求です。
その根幹には、自分の仕事が軽んじられているという不安感があります。
燃え尽き症候群の患者は、自分の価値を証明するため、より多く働こうとします。
2 頑張る長時間働くことは燃え尽き症候群の初期段階に見られる兆候です。
他人に自分の価値を知らせようと思うあまり、
自分がいかにたくさんの結果を出しているかを証明しようとして、
頑張って長く働くこうとします。
夜遅くまで働きつづけることも珍しくなく、
オープンソースソフトウェアの活動の場合はさらにそれが顕著です。
たくさん働けば自分の価値をもっと分かってもらえるという信念のもと、
午前2時や3時まで働いたりもします。
3 欲求の無視この段階になると、眠ること、食べること、友達と遊ぶことなどは単なる「娯楽」であり、
仕事への集中を妨げるものとして位置づけるようになります。
自分の価値を証明しようという欲求があまりにも強い状況であり、
より多く働くことが最優先事項になります。
誰かに誘われても、断ることに抵抗を感じません。
また、働きつづけることに抵抗を感じなくなります。
深夜や早朝に働くことは珍しくなく、
カフェインを多く摂取するため睡眠不足になり、
日中に疲れが残りイライラするようになります。
疲れがたまっているために料理を不要な雑用と思い、
ジャンクフードなど簡単な食事で済ませるようになります。
4 葛藤の置換この段階では、異変に気づいた身近な友人や家族から、大丈夫かと尋ねられるようになります。
それでも本人は、自分は大丈夫だと固く信じており、
家族や友人の言葉を余計な心配だとみなします。
ただやることが溜まっているだけだと言って、彼らの気遣いを聞き入れません。
5 価値観の修正この段階では、仕事へのこだわりが強くなることにより、
それまでの価値観において大切にしていた、友人や趣味といったものを脇にのけるようになります。
仕事でよい結果を出すことが、成功をはかる唯一の指標になります。
積極的に友人から距離を置くようになります。
燃え尽き症候群の過程において危険なのがこの点です。
人付き合いや家族と時間を過ごすことが、もはややりがいのある大切なことではなくなります。
むしろそうしたものは、やりがいある仕事へのさまたげになる、と考えるようになります。
もっと働かなければならないから、と言い訳するのに抵抗を感じなくなります。
いつ尋ねてもダメだと言うので、友人から誘われることもなくなっていきます。
6 問題点の発生を否定するこの段階では、不信感、狭量さ、攻撃性が顔を出してきます。
同僚がバカでとるに足りないことばかり言うように見え、
どんどん生じてくる問題の原因として、
時間が足りない、同僚が無能だ、仕事の分配が不公平だ、と文句をつけるようになります。
睡眠不足により疲れがたまり、ジャンクフードとカフェインのせいでかなり不健康な状態になっています。
自分の価値を証明しなければというプレッシャーのもとで、
自分を情けなく思うと同時に、まわりは自分のつらい状況を理解してくれない、と感じます。
他人に向かってわめいたり手をあげたりするようになり、
口喧嘩をしかけることが増え、謝罪することに抵抗を感じるようになります。
生きることがつらいと感じるようになります。
7 引きこもり他人との接触や人付き合いを最低限に抑え、
許容限度以上の時間を仕事に費やします。
燃え尽きが進行していくという感覚をやわらげることが重要になってきます。
酒を飲むこと、あるいは薬に頼ってストレスを解消しようとします。
何に頼るかはそれぞれですが、通常よりも深くそれにのめり込みはじめ、危険な兆候が出はじめます。
8 明らかな行動の変化友人、家族、同僚からみて明らかにおかしな奇行をするようになります。
本来のその人でなくなったということが、近しい人の目にはっきりと分かります。
身体的に疲れ果て、頭痛、肌荒れ、意欲の低下など健康上の問題が生じます。
対人関係にプレッシャーを感じ、とくに深夜、鬱が強くなります。
9 人格解離この段階では、自分にはなんの価値もないと感じるようになり、
自分がかつてやっていたことへの自信を失います。
自分の人生が、機械的で感情のない歯車の連続のように感じられます。
自分の価値を誇示したいという願いも弱くなり、諦めてもいいかと思うようになります。
10 空っぽの感覚自分が空っぽになったという感覚を強く感じるようになります。
より頻繁に酒、薬、過食、異常性欲、その他の奇行、破壊衝動などに逃げ込むようになります。
鬱がさらに進行します。
11 深刻な鬱この段階では、失望感、喪失感、消耗感を感じ、将来を楽観視する理由をほとんど見出せなくなります。
12 燃え尽きこの最後の段階では、自殺と逃避への渇望とを感じるようになります。
精神と身体が崩壊する寸前であり、医師の介在が必要です。”
ーーー“●心理学者エイドリアン・ファーンハムは、「科学的な証拠が示しているのは、ブレインストーミングを使うビジネス業界の人は正気ではない。ということです。才能があってやる気のある人材を抱えていて、彼らに創造性と効率を第一に求めるのなら、彼らを一人で仕事させるように仕向けるべきです」と書いているくらいだ。
●「ブレーンストーミング」に効果がない理由は他にもある。エモリー大学のグレゴリー・バーンズによれば、人間は集団の中で別の立場を取ろうとすると、脳の中にある扁桃体が反応し、拒否される恐怖を感じるという。これを彼は「独立の痛み」と読んでいる。
●ところがこれを感じない「ブレーンストーミング」がある。それはネットなどを使う「エレクトロニック・ブレーンストーミング」だ。これだと集団は個人のパフォーマンスを越える。
●インターネットから集団的にすばらしい創造が生まれて来た理由はここにある。なぜならインターネットだと、一人一人が孤独でいるのにもかかわらず、集団で作業できるからだ。
●つまりネットだと、人間は「みんなで一緒に孤独になれる」のだ。”
ーーー“マブチモーターで風力発電できないかネットで調べたら、わんさか失敗談が出てきた。どうも、回転数が足りないようだ。ん?ギア使えばいいのでは?と検索語に「ギア」を足して検索するとわんさか成功談が出てきた。おもしろいな”
2014-01-03 04:37