医師のキャリア

採録

 産業医としてのキャリアがありながら、臨床医へ転向するため、他大学の医局に新規入局。関連病院や救命救急センターで充実した生活を送るも、肺炎で入院したのを機に、医師としての生き方を見つめ直す。1年間の僻地勤務を経験後、地域医療に貢献しようと開業した。

戸田賢治さん(仮名)産業医歴9年でA大の循環器内科へ入局。医局派遣で関連病院やA大学病院の救命救急センター、B総合病院の循環器内科に勤務。肺炎での入院をきっかけに医局を辞め、僻地の診療所に1年間勤務。任期終了後、B総合病院の救命救急センターへ勤務しながら開業準備を進め、2010年にクリニックをオープン。40代、妻と子供1人の3人暮らし。
――なぜ、産業医を辞めて、他大学の医局に入り直したのですか? 法律で決められた業務を、決められた通りにこなす産業医の仕事に、私自身が満足感や充実感を得られなかったからです。決して産業医学を否定するわけではありませんし、産業医学の重要性は十分認識していますが、「このまま産業医を続けていては自分の理想とする医師像から離れていってしまうのでは?」という危機感が高まってきたのです。
 厚労省の外郭団体に派遣されたり、ある企業では産業医の導入にゼロから携わるなど、そのまま続けていれば、産業医としてそれなりのキャリアを築けたと思いますが、患者一人ひとりと向き合って、診察や検査から診断・治療まで確かな手応えを実感できる臨床医を目指したいという思いが強くなりました。当時の収入は1000万円程度で生活も安定していましたが、妻も私の意志を理解して、臨床医への転向に賛成してくれました。
 転職先は紹介していただきました。産業医学関連のある委員会の事務局を手伝っている時に、A大学の教授と知り合い、胸のうちを相談したところ、A大学の循環器内科に話を通してくれました。産業医歴9年での転向でしたが、入局後の1年間は、研修医と同じように入院患者を担当しながら、研修医以上が担当する心臓カテーテルの業務も同時にこなしました。研修医からは「入院患者も心カテも担当するなんて大変そう」と言われていましたが、退路を断っての入局だったので、がむしゃらでした。
――医局派遣での勤務はいかがでしたか? いくつかの関連病院勤務を経て、A大学に新設された救命救急センターに教官として配属されました。遠方の関連病院への派遣の話もありましたが、入局時の年齢や子供がいたことなども考慮してもらったのでしょう。
 生活はそれまでとは一変しましたね。産業医時代は週休2日でしっかり休めましたが、関連病院の多くが緊急カテ・PCIを行う体制でしたので夜間や休日の呼び出しも多く、救命救急センターでは重症急患が重なると皆が自主的に残って黙々と急患対応に参加するといった雰囲気で多忙を極めました。プライベートの時間は大幅に減りましたが、充実した日々を送っていました。救命救急の現場はやりがいがあり、意外にも自分に合っていると感じました。急患が運ばれて来ると、頭で考える前に体が動いて指示できる。ほかのスタッフともいいチームワークを築けていたと思います。
 救命救急センターに2年勤務した後、B総合病院の循環器内科へ異動になりました。ここは関連病院の中でも特に医局員に人気の高いところでしたが、部長待遇での派遣でした。
 ここでも多忙を極めたものの、充実した生活を送っていました。ところが、間もなく2年目になる頃に、無理がたたったのか肺炎で入院。仕事を休まざるを得ない状態に。そして休んでいる間、「このまま脇目もふらずに臨床医として突っ走っていいのだろうか…?」と不安になってきたのです。一度立ち止まって、医師としての生き方を見つめ直す必要を感じました。
 選択肢として、A大学病院やB総合病院での経験から、開業の道も頭をよぎりました。患者が病院から退院したり転院したりする時に、地域のクリニックなどを紹介しようとすると、「あそこは嫌だ」などと拒否されて、困ることがよくありました。患者側の大病院志向にも問題がありますが、拒否される開業医側にも改善点があるように感じ、自分ならどうするかを考えるようになっていたのです。
 ただ、心カテやPCPSに心血を注いでいた循環器内科や救急の世界から、開業医の世界、つまり、外来診療に対して、医学的な興味を持って「面白い」と感じられるかどうかには疑問がありました。そこで医局を辞めて、まずは違う場所で自分が医師としてどれくらいのことができるのか、試してみたいと思いました。
――その後、僻地の診療所へ行かれたそうですね。 ええ。自治体の公募に志願して、単身で赴任しました。人口500人程度の高齢者が多い僻地で、医療機関は1つしかありませんから、専門以外の診療にも対応することになります。ちなみに、医局からの反対は特にありませんでした。それまで尽力してきたので、私の意志を尊重し送り出してもらいました。
――僻地での診療はどのような感じだったのでしょう。 赴任してすぐ、質の良い医療が施されていなかったことが分かりました。ただ単に、患者に言われるがまま、エビデンスも全くない、不必要な薬が漫然と処方され続けているケースがありました。院内処方で薬の在庫がたくさんあったことも良くなかったのかもしれません。不必要な薬やエビデンスが全くない薬は、思い切って処分しました。患者にも根気強く説明して、理解してもらうよう努めました。
 そのほか、AEDのメンテナンスがされていなかったり、輸液ポンプやシリンジポンプがなかったり、縫合針や糸の期限が切れていたりと、備品や材料の面でも問題がありました。自治体から積極的な支援が得られなかったので、過去の勤務先から廃棄処分のシリンジポンプを譲ってもらったり、サンプル用の縫合針や糸を回してもらったりして対処しました。
 赴任していた当時の年収は1800万円。これくらい出さないと、志望する医師はいなかったのでしょう。行政側は、とにかく赴任してくれる医師がいればいいという感じでしたから、医療の質を求めるのは難しいかもしれません。私は任期の1年でここを離れましたが、その後も体制はあまり変わっていないようです。現地の看護師からは今でも困ったことがあると連絡があり、相談にのっています。
 僻地での経験は、「外来診療に興味が持てるか」という私の疑問に、明確な答えを出してくれました。呼吸器疾患や消化器症状も含めた一般内科領域、腰痛などの整形外科領域、頻尿や排尿困難といった泌尿器科領域など様々な症状に対して総合診療的なアプローチが必要だったり、患者の訴えから症状の増悪を予見したり。外来診療の重要性や奥深さを実感することができ、自信にもなりました。そこで、やはり開業しようと決意し、僻地から戻った後、以前の派遣先だったB総合病院の救命救急センターに勤務しながら準備を進めました。
――開業や転職を考えている医師に、何かアドバイスをお願いします。 まだ開業したばかりなので助言できる立場にはありませんが、開業した先輩方からは、3年は大変だよと言われました。それでも、自分の信念を曲げてはいけない、目指す医療を地道に続けていくだけだと。
 私の場合はこれまでの診療経験を生かし、専門的な循環器医療を提供するとともに、質の高いプライマリケアを担いたいと思っています。 大学病院や総合病院での臨床経験はもちろんですが、様々な症状を診ることが多かった僻地での経験は大いに役立っていますね。時々、受け持ち患者が勤務する企業の人事担当者や産業医から、患者の症状や就業上の配慮について説明を求められることがあります。そうした時には、産業医の経験から、プライバシーと個人情報の保護を図りつつ、問題点を整理して、具体的かつ的確な回答をするよう心がけています。
 転職にしても、自分のプライオリティーを見極めることは大切でしょう。また、退局しても、医局とは友好な関係を築いておくとべきだと思います。