テレビでカラオケの機械採点の点数を競う番組

テレビでカラオケの機械採点の点数を競う番組があって、とても歌のうまい女性が22連勝くらいを続けていたのだが、「Let it go」を歌って負けたという場面があったらしい。その「Let it go」は「ありのままで」という邦題とのことだ。それは違うだろうという意見と、さらにそこから日本文化を分析してみせるのが次の文章。
それに対して、反論が二つあって、ひとつは英語の解釈に関するもの。これは背景説明とともにとても説得力がある。もう一つは日本文化の現状に関して、原著者とは別の感じ方をしているという意見。
原著者の方法論は、「甘えの構造」以来脈々と続く、言語の説明から、国民性の違いに及ぶというもので、それ自体はエッセイとしていいのだけれども、英文の意味の解釈の点で確かにやや難点があるようだ。そして日本文化の現状に関しても、昔から脈々と受け継がれている典型的な日本人・日本文化理解であって、その方面の本を読み慣れている人には一見わかりやすいのだけれども、反論で上がっているように、そのことを現実の日本人・日本社会の特質とするには少し無理があるようにも思う。
『積極的に自分が耐性力をつけることで、嫌なことが自分に影響力を持たないようにする。嫌なことを自分の力でどこかにやってしまう。これはポジティブな力だ。』というあたりは、生き方についての指導者然としていて頼もしい。「いかに生きるか」の伝統版である。
『「ありのままに」は「無垢さ」とも強く関連して、今の日本ではポジティブにとられる言葉だろう。このことは、「無垢さ」に相当する英単語”naive”が大変否定的なニュアンスをもつこととは対照的だ。』というあたりは、「甘えの構造」以来の、舶来文化を民衆に伝道しようという、これも指導者然とした構えが見えていて面白い。
現代的なのは、舶来文化の伝道者なのに、舶来文化の理解の中身について否定され、さらに日本文化の理解について未熟であると批判され、その批判はどちらももっともなもので、伝道者は面食らうだろう。それくらい日本の文化もある意味では成熟してきたといえるのではないか。
一方で、軍国主義や狭隘な愛国主義が大宣伝されているのだが、その禍々しい言葉についても、このように正当な批判精神が発揮されてほしいものだと願う。
ーーーーーでは、原著者による本文テキスト”Let it go”と「ありのまま」の違い
ディズニーのアニメ映画『アナと雪の女王』の主題歌、「Let it go ありのままで」が映画とともに大変な人気なようだが、この歌の訳が原義とずれていて、その英語と日本語の違いが興味深いので少し詳しく書いてみた。
“Let it go”とは、怒りや不安でさいなまれている人に、そんなことは忘れてしまいなさいよ(“forget about it”)、と呼びかける言葉だ。だが、忘れてしまえといっても、コンピューターのキーをおして消去するように記憶を消してしまうことはできない。「忘れてしまう」こと「気にしない」ということの中身は、自分自身に怒りや不安を起こさせるような嫌なことを無視できる力を持つこと、耐性力をつけることだ。そうすることで、脳の中には記憶そのものが残っていても、「気にしない」こと、「忘れてしまう」ことができる。これが”let it go”の中身なのだ。
積極的に自分が耐性力をつけることで、嫌なことが自分に影響力を持たないようにする。嫌なことを自分の力でどこかにやってしまう。これはポジティブな力だ。だから“Let it go”には元気づける力がある。この歌が映画の主要な原動力になり、それで歌と映画に爆発的な人気が出たということは、それだけ怒りや不安を感じながら生きている人が多い時代だとも言える。
ところで「ありのままに」というのは、日本語の中で、少し違ったニュアンスで人々をひきつける言葉だ。「ありのままに」は「無垢さ」とも強く関連して、今の日本ではポジティブにとられる言葉だろう。このことは、「無垢さ」に相当する英単語”naive”が大変否定的なニュアンスをもつこととは対照的だ。たとえば、自分のパートナーに「ありのままの自分を受け入れてほしい」というのは、しばしば今の日本社会で特に若者にみられる幻想だろう。自分のそのままの成長していない、赤ちゃんのような状態で評価されるとしたら、それほど楽なことはない。努力をして自分を成長させることで、より高い人格になろうという進歩的な考えはそこにはない。
”Let it go”は「無垢さ」とは無縁の言葉で、その意味で「ありのまま」とはかなり違う。ただ、自分の属性の一部(たとえば体型・顔・性格など)が自分に嫌な気持ちを起こさせる原因になっている場合、それを「忘れてしまう」ことは「ありのまま」の自分を受け入れるということと似ている。実際、日本社会特有の束縛から外れて自分の思うように生きようとすることを、「ありのままに生きる」と言うことがある。おそらく歌の訳者は、こうした意味をくんで訳をあてたのであろう。映画『アナと雪の女王』のエルサは、自分の魔力を(心理学的な意味で)抑圧して生きて来たが、”let it go”を歌い、その魔力をもっているということが普通ではないことを「忘れて」、それが人に恐怖を与えるということを「気にしない」ようになる。つまり、自分のそうした属性を受け入れる。そして、まるで天の岩戸の神話(天照大神が怒りのため岩戸に籠った神話)のように、深い山中に築いた自分の城に籠る。
こう考えてくると、どうもエルサは「ありのままに」なったのではないようだということに気がつくだろう。「ありのまま」の自分を受け入れたひとが、山中に籠る必要はない。映画のエルサは、”let it go”により、もはや自分の魔力を気にすることをやめることで、その力の暗い側面が人に知られることを気にしないようになったまでであり、”let it go”という思い切りにより、むしろ悪魔的になったともいえる。これはエルサの人格成長の最終段階ではない。しかし成長して大人になるためにはどうしても通らなければならない、自分の可能性を積極的に認めるという段階といえる。だからこそ、映画の話は「let it go ありのままに」の歌の場面では終わらない。
ところで日本語の「ありのまま」は、「自分探し」とも関わって、それはそれで重荷になる言葉だと思う。「ありのまま」という言葉に決定的に欠けているのは、社会との関係だ。実際には人格というものは、社会および自分との関係の中で形成されていくものだ。「ありのまま」という言葉はしばしば人格形成の文脈で使われるが、これは根本的に間違っていると思う。人格形成のために自分の中だけで「ありのままの自分」探しをしても、論理的に見つかりえない。もし見つかったとしたら、それは間違いなく幻想だ。こうした作業を厳密にやるひとほど、その行為と結果に落胆することになる。(もっとも、いわゆる「自分探し」については、その見つからないという作業そのものの中に価値を見出す人も多いかもしれないが)
“Let it go”の歌が教えてくれることは、人より少し強い力をもっているがゆえに自分が社会と適合しないのではないかと不安でさいなまれている人がいたら(それが特に自分自身であったときに)、「そんなことは忘れてしまいなさいよ」「気にしなさんな」と言ってあげよう、ということだ。そうすることで、その人は自分がためらっていた力を存分に発揮できるようになる。
このように”Let it go”には含まれているのに「ありのままに」は含まれていないものが、まさに今の日本の社会で欠けている要素の一つのように思えてならない。
ーーーーー反論1のテキストLet it go.の本来の意味は「どこかに行きたがっているものの邪魔をしないでそのまま行かせろ」ということです。
つまり、外に行きたくてうずうずしている仔犬を押さえている手をぱっと離して自由に駆け回らせてやる、というイメージです。ちなみに誰かに腕を掴まれて「離して!」という時は「Let me go!」
もちろんLet it go.が「忘れてしまえ」の意味で使われることもありますが、その場合の「it」は「悩みの種」を指します。「頭の中でくすぶっている悩みを外に逃してしまえ」ということ。それに対して「アナと雪の女王」の「it」は「不思議な力」のこと。「今まで力を隠しておとなしくしろって言われてきたけど、もう皆にバレてしまった・・・。えーい、もう遠慮するのやめた!」っていうのがこの歌詞です。「今まで抑えていた力を解き放ってしまえ、もう本来の自分をそのまま出して行こう!」ということです。
ーーーーー反論2のテキスト『ありのまま』と『無垢』を関連づけるのには無理があると思います。また『無垢』が日本でそれほど肯定されているとも思えません。(無垢でいいのはせいぜい小学生まででしょう)筆者は欧米に比して日本人の若者の幼児性が高い事をポイントとしているのかもしれませんが、いくら『幼い』日本の若者でも『自分のそのままの成長していない、赤ちゃんのような状態で評価される』事は望んでいません。不安や様々なコンプレックスや人生の問題と戦いながらもがいている一生懸命かっこ悪い自分を最愛の人に認めて欲しいのだと思います。
それに『人格形成のために自分の中だけで「ありのままの自分」探し』をしている若者像がまったくイメージできません。そんな若者がいるのだろうか?
ーーーーーそもそもを言えば、何が日本的特徴であるかを、どのようにして正確に決定したら良いのだろうか。その点に頭の良い解決かないまま、印象による、また論壇の多数決による、日本的なものの輪郭があるだけだと思う。そしてそのことと、主に英米語と日本語の言葉の違いを関連付けて、何かを説明したように錯覚するという伝統は、どうしたものだろう。日本的特徴があるとして、それは、長い文化的伝統と、また一方で、物質的諸条件による結果に違いないではないか。特に、物質的諸条件が原因で生じた日本的特徴について深い分析がないから、言語分析で精神分析したような気分にもなるのだろう。
これは診察室での態度を考えて見れば良いと思うのだが、来談者の語る言葉を分析し、描く絵を分析し、どこまで精神に迫ることができるものだろうか。家庭生活、生育歴、仕事、これらについて、客観的諸条件を吟味することも大切だろう。来談者の心のなかにある主観的な家庭や生育、仕事だけが問題なのではない。現実の客観的諸条件が、現在の来談者の精神を形成していて、その結果としての、主観的認識なのである。たとえば来談者の夢を手がかりにして精神の内容を知る方法もあるだろうが、果たしてどの程度真実だろうか。夢は精神の一部から放出された成分でしかなく、同様に、言葉もまた精神の一部から放出された成分であるにすぎない。日本人にとって日本語は基本OSであるが、果たして、津軽の言葉と薩摩の言葉と京都の言葉は『同じ』基本OSなのだろうか。津軽と薩摩と京都の違いを生んでいるのは物質的諸条件であって、精神も言葉=基本OSもその結果ではないだろうか。精神と言葉という結果同士を『分析』しても大したことはわからないだろう。むしろ同じことを言い換えることになるだろう。同義反復なら間違いはない。しかし何もわからないだろう。
2014-06-03 01:52