科学は錯覚である 愛から信へ

本棚には
科学は錯覚である
というタイトルの本があり
当然読んではいないが
思うに科学とは何か、錯覚とは何かを論じているだけで
一生が終わるだろうと思う

もちろん、科学は錯覚ではない
人間の生活を変えている
子供は心理的な成長ゲームの代わりにゲームマシンで自己愛を増殖させている
津波が来れば原子炉からは放射能が放出されるし
パーソナルコンピュータはますます小さくなり手のひらに乗るようになって
こうしたことのすべてを錯覚だというには
錯覚の言葉の意味をかなり誤解していなければ無理だろう

しかしまた科学は錯覚なのであって
科学を包含する人間の知的活動全般は錯覚なのである
科学は錯覚であるという言明もまた錯覚であり
そう考えると自己言及の錯覚はいつまで経っても錯覚なのだ

自然科学や工学はどんどん進歩するのに認識論とかそんなあたりの論は
ほとんど進化しない
例えばパーリ語の仏典を語り漢訳仏典をクリティカルに購読していた中村元は
パーリ語やサンスクリット語の文献の中に
現代の認識論のほぼ全ては含まれているというような感想を述べていたのだけれども
もちろん、パーリ語の文献の中の言葉に
現代のウィトゲンシュタイン以降の認識論と同型のものを読み取るには
知恵が必要である

不思議に思うのだが
無線高速通信の専門技術者であるA氏は素晴らしく高速で大量のデータ通信を可能にしているのだが
そのようなスーパー頭脳の彼のPCの閲覧履歴は何の変哲もないただの小心者の履歴である

科学は錯覚ではないが
認識論は錯覚である

ある認識が錯覚であるかどうかを決定する方法はあまりない
認識が錯覚である場合と錯覚でない場合とで結論が明白に違うならば
考えることにも意味がある

しかし錯覚であっても錯覚でなくても結論が同じであるならば
錯覚か否かはどうでもいいことに属する

錯覚か否かと念仏を唱えている間に
飢えて死んでいく子供たちを救おうではないか

この世界は仮である
仮象である
かりそめである

そしてこの世界は疲れた脳の見る幻である

職業柄疲れた脳をたくさん見てきている
そして疲れた脳が世界をどう見ているのかについても経験の蓄積はある

正直な話、ひとつの脳が世界をどう見ていようと
あまり関係はない
学習能力の強い脳はその時代の有力な錯覚を取り入れて認識を形成するが
そのことは同時代の学者たちと話が通じるようになるというだけがメリットであり
他に何も言うことはない

一つの脳が眠ったとき世界は何も変わらない
一つの脳が消滅した時も
世界は何も変わらなかった

これを認識の問題として捉えることもできるが
神との関係としてとらえる事もできる

神はそのとき何をしていたのか
神はその時こちらを見ていたのか

私があなたに無限の関心を注ぐように
神は私に感心があるのだろうか

若い頃、私の心には愛があった
もちろんそれは錯覚である

そして老境の今、私の心には信がある
それももちろん錯覚である