つらいときは、 ただ、その想いを「言葉」にしてみる、 それだけで随分チカラになるんじゃないか。

採録 出典不明

ーーーつらいときは、ただ、その想いを「言葉」にしてみる、それだけで随分チカラになるんじゃないか。
「表現」は、「問題解決」ではない。
問題に対する想いを、考えて、これしかない、という言葉にし、ただ外に表すだけだ。
にもかかわらず、言葉にしたあと、
生徒さんたちは、どんどん現実の問題を解決してしまう。
言葉はチカラだ。
言葉にした想いが、本人をグングン牽引して、現実の状況を切り拓いていく。
本人がいちばん驚いている。
Aが、ワークショップで、初めて想いを言葉にできたとき、まだ本人さえ、半信半疑だった。
生徒さんのプライバシーにかかわるため、今回は、男か、女かも、具体的なことは何も言えない。
ただAとだけ言っておく。
Aはこの半年間、肉体的、精神的に、酷く辛い状況におとしめられていた。
Aは何も悪くない。
にもかかわらず、「自分のせいでこうなったんだ」「自分が悪いからだ」という、心身弱ったときに抱きがちな想いにとらわれてしまっていた。
それが、問題解決を遅らせ、だれにも言えず、一人で抱え込み、そのことでさらに心身が弱り、さらに自罰的な想いにとらわれ、と悪いスパイラルにはまっていた。
こうなってしまうと、仮に他人が手を差し出したとしても、問題の根本は解決しない。本人が抜け出そうという意志を持つことが重要で、でも、そこが一番むずかしい。
半年間、ながい。どれだけつらかったろう。心的にも、身体的にも。
今年度のワークショップは、勇気ある表現が相次いだ。全国どこへ行っても、学生も、社会人も、
テーマについて、伝えたいことを伝えるために、ときに自分をさらけだしてまでも、勇気をもって表現する姿に、たぶん、私の表現史上で一番多く立ち会った。
そんな生徒さんたちの勇気が、Aを突き動かした。
Aは、自分が表現する順番を待っている間も、言おうか言うまいか、と、ずっと迷っていた。
自分の番が来て、みんなの前で表現しはじめても、Aは、「どの口が言っているのか?」、まだ、自分で自分が信じられなかった。
でも、Aは、自分の置かれている状況を濁さず、はっきりと、みんなの前で伝えた。
そして、親にも、友だちにも、いままで誰にも言えなかった想いを、自分の外の世界に対して、初めて、言葉にした。
「もう、もとの自分に戻ってはいけない。」
語気は弱々しく、声は震えていた。にもかかわらず、言葉は、まっすぐ、強く、射抜くように、霧を晴らすように、聞く人の胸に届いていった。
その瞬間、私も、ふるいたたされ、ものすごく勇気をかきたてられていた。
「もう、もとの自分に戻ってはいけない。」
言葉はそれだけだった。問題解決に向かって具体的にどうこうするとも、だれに、どうこうしてくれとも、Aは言わなかった。
それどころか、言葉にしたからって、すぐに状況は変わらない。解決に向けてすぐに自分が動きだせるわけでもないと言っていた。
なのに、なぜ、こんなにシンプルな言葉1つに、自分は、ふるいたたされているのだろう。
案の定、表現をきいた生徒さんから、Aには、たくさんの感動と共鳴の声が届けられた。
生徒さんの文章には立ち入っても、決して、その人生には介入しないよう、表現の教育者としてつつしんできた私も、
ひとりの人間として、Aにできることは何か、専門家に問い合わせつつ、自分にできることを考え、できるだけの準備をした。でも、次にAに会ったとき、いい意味で、準備はすべて無駄になった。
表現したあと、Aは、自分の意志で両親に話し、解決に向けて、自分で歩き出していたのだ。
「ただ、言葉にする。」
「生の声をあげる。」
「人前で言ってみる。」
その言葉のチカラを、これほど思い知らされたことはなかった。
書いたり、話したり、とかく言葉にする作業は、「考える」労力が要る。だから、げんきんな人は、
「相手に伝わる証があるんなら書くけど、 伝わるかどうかわからないのに、 わざわざ面倒な手紙なんか書かない。」
という。で、いざ書いてみて、それが、相手に伝わらない、わかってもらえないと、
「自分には表現する才能がない。」
とすぐに、表現することから逃れようとする。でも、
「表現すること」と、「伝わるかどうか」と、ましてや「問題解決」は、ぜんぜんハードルが別だ。
人にわかってもらえないとすぐに放り出す人は、「表現」に、「伝わる」ことも、「問題解決」も、なんもかんも、期待を込めすぎているように思う。
期待しすぎるから、表現になかなかとりつけなくて、期待が裏切られると、すぐ、表現に挫折してしまう。
でも、たとえ、相手に伝わらなくても、わかってもらえなかったとしても、たとえば手紙を書くなどで表現していくうちに、
考えて、自分の思考が整理されていく感じや、自分の根っこにあった想いが、これ以上ないくらいのしっくりした言葉にできて外に出せたスッキリ!感は、決して小さくはないはずだ。
表現は、まちがいなく自分の外に向けた行為だ。
私たちは、自己満足でなく、人に通じさせようとして表現に挑む。
でも、逆説的だけど、その過程で、「わかってもらおう」「わかってくれ」というやまっけのようなものを、ポーン! と潔く手放す勇気を試されるような段階がおとずれる。
最終的に、自分の想いが、これしかない! というありようで表現しきれたときは、「たとえだれひとりわかってくれなくともかまわない。 自分はこれが表現できた。」という、ささやかな内なる自信が湧いている。
Aの言葉が状況を切り拓いたのも、文章に対しても、人に対しても、余分な期待や依存のない表現だったからだろう。
「もう、もとの自分に戻ってはいけない。」
これ以上のことを言おうとすれば、心身追いつめられているのに、虚勢になる。自分の身の丈からはみ出た分は、書くことや、読む人に、無自覚に甘え、期待することになる。かといって、これ以下になりさがっては、自分が自分に対して満足できない。
Aの言葉は、これしかない、まさに等身大の表現だった。
Aは、ただ言葉にした、それだけだった。でも、生んだ言葉が、人をふるいたたせ、反響を集め、Aの手を引いて、ぐんぐん状況を切り拓いていった。
大きな混乱の中にいる人に、
いっしょに問題解決を図ろうとするのは、人として、とてもまっとうなことだ。
でも、いきなりハードルが高い。それは、
「言葉にならない想いを言葉にしろ」と、「私に伝わるように話せ」と、「その問題を解決しろ」を、同時に3つ要求するようなものだからだ。
問題解決は後でいっしょに考えよう。うまく人に伝えられなくてもいい、
「まず想いを言葉にしよう。」
そのくらいハードルを下げてもいいのかなと思う。人に対しても、自分自身がつらいときも。
人はそこから、立ち直ってゆけると思う。

2013-02-16 15:51