「5.631 思考し表象する主体は存在しない。『私が見出した世界』という本を書くとすれば、そこでは私の体についても報告され、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないかなど語られねばならない。これは、すなわち主体を孤立させる方法である。あるいはむしろ重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本で論じることができない唯一のもの、それが主体である。」とウィトゲンシュタインは言う。 言語は、世界がどうなっているのかを語るのみで、それが何であるのかについては語ることができない。論理や倫

「5.631 思考し表象する主体は存在しない。『私が見出した世界』という本を書くとすれば、そこでは私の体についても報告され、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないかなど語られねばならない。これは、すなわち主体を孤立させる方法である。あるいはむしろ重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本で論じることができない唯一のもの、それが主体である。」とウィトゲンシュタインは言う。
言語は、世界がどうなっているのかを語るのみで、それが何であるのかについては語ることができない。論理や倫理など、言語のルール設定、価値設定が成立した上でのみ語ることができ、その設定自体を語ることはできない。世界の内部にいる事象としての私について語り得るのみで、世界を立ち上げている、世界の限界としての「私」、世界の開闢者としての「私」について語ることができない。言語が語り得るのは、世界がどうなっているのか、命題として像として切り取られ立ち上げられた世界の姿のみである。要素命題から構成され、組み合わされて作られた命題によって織りなされる思考の空間の中だけが語り得る中身なのである。
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この宇宙の内部構造について語ることはできるが
この宇宙がどこに浮かんでいるかについては不可知である
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フレームについて語ることはできるが
それもまたフレームによって語るのである
どこまで行っても、フレームによって語るだけで、内容は関係ないようだ
内容に関係ないからこそ、様々な環境を生き抜くことができるのである
その時の環境を代入すれば良いだけなのだ
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ここでもまた歪んでしまったフレームを語ることになる
フレーム自体に優劣があるわけではない
ただ環境との適合性に差があるだけである
その環境に適応できることがさほど偉いことでもない
しかし次世代に子孫が残せないので威張ることもできない仕組みになっている
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逆転した現象として、
歪んだフレームが歪んた中身を生産し続けることがある
それをプロダクティブと呼ぶ人もいる
商売のネタにする人もいる
その程度のことである
その程度のことで環境適合度は変化してしまう