心理士と私が共同で試みていること

 

本来心理士と私が共同で診察室で試みていることは何だろうと考える

 

それは言葉そのものでもいいしメタファーでもいいし引用でもいいのだけれども

広い意味での表現を与えることだと思う

極端な場合には言語新作でもいいが

もちろん、20年後にカルテを読んだ場合にも、第三者によく分かるものであって欲しい

背景と経緯とを説明すればたいていはよくわかる

むしろ現在しか通用しない専門用語を使って書かれている場合に

20年後に誰も理解出来ないし理解する価値のないものと断定される恐れがある

 

患者さんにもいろいろあって

症状とか自己の内面に関して

すでに完全に一般的な言葉を獲得して納得している場合もある

それはそれでいいと思う

それが間違っているから行き止まりになっている場合は

そこに新たな提案をすることで治療が前進する場合もある

間違っていなくても新しい側面から光をあてることで

役に立つこともある

 

 

行動療法や認知行動療法の場合には

内面で何が起こっているかの解釈は完了している場合があり

その解釈の延長で何をすればいいかだけが問題のことがある

CBTで回避を指摘し不安階層表を作り暴露をする面だけを切り取ればそうなる

またSSTの関わりでは解釈よりもどの場面で何をすればよいかだけが問題となることがある

 

しかし実際には患者さんの内面で何が起こっているか

たとえば自動思考からフュージョン、そして回避行動の固定までの部分に

再度言葉・表現を与えることが本質的である場合もある

 

このプロセスは固定的なものではなくて

患者さんとのやり取りの中で

想像力的にも創造的にも取り組むことができる

どの患者さんにも通用する説明が予めあるというのも納得できない

治療者は優秀な観察者でなければならないし優秀な表現者でなければならない

しかも何よりもそれが患者さんの心に響くように配慮できる者でなければならない

 

たとえば患者さんは内面の不安を自分なりの言葉で表現する

それは切実だし重要だ

しかし治療者はさらにそれを専門家として参加して表現するのである

たとえばICDのF32.1ですむものではない

 

こういう例で分かるかもしれない

患者さんは故郷の風景を描くとする

もちろん専門家でなければうまくは描けない

しかし細部は患者さんしか知らない

 

患者さんの描いた絵を見て

さらにそれについての説明も聞き

必要な質問もして

その上で専門の画家が風景を描いたとしたら

患者さんは「ああ、これなんです!」と言うかもしれない

 

私はそれがしたい

 

患者さんが表現を与えられずに苦しんでいる不安やこだわりに

「こんな感じですか」と表現を与える

そこに共感が生まれ理解が発生すれば良い

 

ーー

しかしながら簡単な話ではない

画家の例えで言えば

現代で言ううまい画家は非常に特定の流派の特定の表現に固定していることが多い

ゴッホに自分の内面の風景を描いてもらったとして

あまりありがたくない

 

ここで必要なのは特定流派の芸術家とは違うのである

ラカンとかビオンとか背景知識として理解していたほうがいいけれど

あからさまにその言葉で描いても

患者さんの内面をよく描くものになるとは限らない

 

もっと素朴な次元での絵のうまい人ということになるだろう

 

ーー

治療者はたいてい「治療」をするものなので

患者さんの内面を表現して

改めて納得してもらうことは

たいていは「治療」の中に含まれていない

 

薬剤やCBTとかSSTとかが治療らしい治療である

 

しかし患者と心理士と医師が三者で空間を作り

その中で三者で共有できる患者さんの心の中の風景を描く

そのようなことが治療の本質として役立つと思う

しばしば省略されているのだが

治療者は無言のうちにそのプロセスを経過している

それをきちんと表現して共有しようというのが私の治療である

 

ーー

私たちは

素晴らしい風景を見た時など

それを表現する技術のないことを残念に思うことが多い

断片的に言葉で表現したり

拙いけれども絵で描いたりする

しかし届かない

(届かないという気がするだけなのかもしれない。知っているなら届くだろう。知らないから届かないのだろう。) 

自分の内面で発生している不安は

今まで経験したことがないもので

どの小説でも読んだことのないもので

どんな言葉でうまく言えるのか分からない

とりあえず断片的にあれこれ表現してみる

という場合が多い

 

それを注意深く聞き取り理解し

治療者が改めて表現を与える

そのプロセスを省略しない

 

たとえば、その上司は私が嫌いだからいじめていると表現もできるが

私をライバルと思っているから警戒していると表現できるかもしれない 

 

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内科ならば画像を見せてここが腫れていて圧迫が生じているので痛いんです

だからその圧迫を取り除けば治ります

などと説明する

 

それがCBTとかSSTに近いことだと思う

 

しかし「ここが腫れていてそこを圧迫している」様子は

心の中のことは写真に写らない

 

そこで注意深く聞くし客観的に観察もする

治療者は理解した上で薬剤を提案したり行動の処方を提案したりするが

患者さんの内面をどう聞いてどう理解したか

患者さんに改めて表現を提案することは少ないのではないか

しかしそれはとても治療に役立つのではないかと思う

 

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絵のうまい人がサインペンでサラサラとデッサンしてくれると

「ああ、この樹です!」という体験はある

それはアキスカルの言う何型ですねとかDSMの何とか

そういう表現とも違う

もっと素朴でもっと患者さんの納得を引き出すものだ

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これをフォーミュレーションとかアセスメントと言ってもいいのだけれど
各流派でかなり決まったことばで描写する
CATならばreformulation letter で伝えるが
やはり特有のことばで表現する
それは公式の当てはめに近い

そうではない
公式なんかない
その時その時に新しくひらめくこと
それが求められている