第27章 パーソナリティ障害と文化要因について

第27章 パーソナリティ障害と文化要因について
ポイント
・ある種のパーソナリティ障害は文化的変異産物に過ぎないと考えられてきた。
・文化が違えば考え方も違う。適応と不適応も文化の違いでもある。
・反社会性パーソナリティ障害は社会経済状態の低さに関係している。従って、それも単に生存のための防衛戦略なのかもしれない。
・妄想性パーソナリティ障害は少数グループに見られることがあり、移民や難民でも見られる。
・スキゾイドは地方から都会へ移住した人の場合に誤診されている可能性がある。一方、スキゾタイパルはブードゥー教やシャーマニズムを信じる人の場合に誤診されている可能性がある。
フランスの人はクール。
—アメリカの文化的固定観念
文化を越えてパーソナリティ傾向を評価することは非常に難しい。ドイツ文化では強迫性パーソナリティ障害が発生しやすく、ラテン文化ではそれほど厳密ではないと言われる。多くの心理学者や他分野の科学者が、ドイツ、ノルウェイ、フィンランドのような北ヨーロッパにおける厳格で早期のトイレトレーニングは人々の強迫性傾向を引き起こすことを証明しようとしてきた。他方、それほど厳しくなく早くもないトイレトレーニングはイタリア、スペイン、フランスなどの南ヨーロッパに見られ、演技性パーソナリティ障害に関係しているとも言われてきた。これは言い過ぎであって、複雑なことを単純にしてしまっている。
性格傾向としてよく知られ、長年研究されてきたものの代表として、神経症傾向、外向性、精神病質傾向の3つがある。
神経症傾向と外向性に関しては文化を越えて測定可能であるが、精神病質傾向についてはそうではないと考えられている。非西洋文化の中には、他者と自分を区別するパーソナリティという概念が知られていない文化もあり、したがってそこではパーソナリティを研究することもできない。
集団アイデンティティを結束させる以外に国家の固定観念は必ずしも有効なわけではない。「アメリカ人はみんな自由を愛する」といってもそれは軍隊をまとめるには便利だろうが、パーソナリティを記述するには不正確である。自己評価を測定するとき、外向性が高ければ肯定的な自己評価となり、神経症傾向が強ければ、自己評価は低い。これはすべての文化に通じて言える。
反社会性パーソナリティ障害は下層社会経済階級に広汎に分布しているようである。このことは適応的な世界観から理解できる。たとえば、なぜ下層社会経済階級の人たちは法を守った行動や社会規範を尊重すべきなのか?法も社会規範も彼らを排除しているのに?と考えてみよう。
もし13歳の少年が野球のバットを切望し、貧しくて買えないとしたら、盗むことにも意味はあるのかもしれないと考えてみよう。もちろん、現実には逮捕されるかいざこざになるだろう。しかし彼の両親が法律も知らず法律を無視しているなら、盗むことも論理的かもしれない。
つまり法や他人の権利を守っても利益がなく破れば利益があるならば破ることを選択する可能性はあるのだ。そのような利益の計算が成立する社会のサブグループが存在する。
妄想性パーソナリティ障害(偏執病)は、多数派に差別されていると感じる少数派で見られることがある。もしあなたが集団の中で唯一のアフリカ系アメリカ人だとしたら、疑い深くもなるだろうし、他人の忠誠心を疑い、信用しなくなり、恨みを抱きやすくなるだろう。これは最近の移民や難民でも言えることだろう。
人口300人の町から800万人のニューヨークに引っ越してきたら、多分内向的になるだろう。親しいつきあいなんか望まないし、他人に無関心になり、孤立していると感じるだろう。これは「感情的凍結」として知られている。多くの移民は冷たく、敵意があり、無関心であるが、しかし彼らは自分のことを投影しているだけなのかもしれない。彼らをシゾイド・パーソナリティ障害と誤診することがある。
あるいは、ハイチに生まれ、家族がブードゥー教で、それが当たり前だとしたら、その人の信念はスキゾタイパル・パーソナリティ障害と誤診される可能性がある。
一方、境界性パーソナリティ障害は世界中どこにでも見られる。彼らは実存的ジレンマを抱え、不安で、性的葛藤に悩み、いろいろな社会的圧力にさらされている。彼らはそれらに対して、感情の不安定さ、怒り、空虚さで対応している。
文化を越えて、人間のパーソナリティは同じである傾向がある。文化の違いは大きいが、内向性、外向性、または神経症傾向、精神病質傾向などに別れていると考えられる。