名誉回復 ペルーでは今年に入ってから学校でのいじめが原因とされる自殺が都市部を中心に相次いでおり

名誉回復ペルーでは今年に入ってから学校でのいじめが原因とされる自殺が都市部を中心に相次いでおり、7月の終わりには自殺者は7人を数え、事態を重く見た教育省が公立私立を含めたすべての初等、中等教育機関に調査を入れたところピウラ県だけで240件のいじめの報告があった。そして先月はアレキパにある軍学校で15歳の生徒が農薬を飲んで自殺を図った。幸いこちらは一命をとりとめたが、現在学校でのいじめが原因で自殺した生徒は今年に入りすでに13人にのぼる。リンク先の記事によると、ペルーでの去年の自殺者は国民全体で312人、今年は現時点で201人となっている。日本の年間3万人(未遂や24時間以降の死亡などカウントされないケースも含めると10万ともいわれている)という数からすればたいした人数ではなさそうだし、人口は日本の22%程度であることを差し引いても、決して多くはない。しかしやはり自殺を大罪と考えるカトリックの影響の強い国で、これだけの自殺者が、しかも子どもに相次いでいるということが大問題であるとして、とうとう教育省もいじめ対策に乗り出した。
実は去年の6月に「いじめ対策法」が議会を通過しているのだが、この法律が発効するまでに新たな犠牲者をこれ以上出さないためにも「もし学校でわが子がいじめられていて、学校側がなんら対策をとっていない場合、迷わず警察に援助を求めてください」と現地警察責任者も新聞紙上でアナウンスをしている。アレキパの軍学校でいじめられていた生徒は先住民族の出身で家庭は非常に貧しく、そのことを理由にいじめを受けていたのだという。同じく先住民族出身であり軍人でもあった現大統領のオジャンタ・ウマラはこの件に対し「非常に恥ずべきことである。出自や貧しさを理由に人を差別し誇りを傷つけるような人間に、この多民族が暮らすペルーの国民を等しく守る軍人としての務めが果たせるだろうか?」という旨の発言をしていたということを聞き「大統領、オトコマエやなー」と思った。引用記事によると、加害者の生徒はすでに警察の管理下にあると書かれている。軍学校での出来事にすら警察が介入していることにちょっと驚いた。
リマで看護学校の教員をしている友人に、現在どういう対策をしているのかと連絡をとってみたところ、特に細かい話ではない、すべきことは二つ、被害者の身の安全の確保と名誉を守ることだという。日本でもこの夏はいじめ自殺の話題がよく取り上げられていた。その中で「このいじめ対策はすごい!」というものがあったのだが、日本ではこういう細かい「対策」があってね、と大雑把に訳して伝えると彼女は「まあ、まあ、まあ!とんでもないことを!それはケンカの仲裁の方法でしょう?『謝罪させる』なんて!謝罪させるために会わせたら後でもっとひどいことが起きるのは虐待でもDVでもよくあることじゃないの。いじめはケンカとは全く別のものなのよ!」と半ばあきれたように言っていた。
以前「親に謝らせることが虐待被害者にとって一番の回復手段だ」と言っているカウンセラーというのがいたのだが、わたしは当時その話を聞き「なんという恐ろしいことを勧めるカウンセラーだ」と青くなったことを思い出した。それはすなわち「虐待してきた親」に、自分の支配力がいまだ有効であると教えることである。自分が謝罪すれば大きな癒しになる、と自分の行為の持つ「影響力」を示すことで、過去に虐待という行為で子どもから得てきた「有能感」を再確認させることを後押ししてどうするのだろう。それは新たに形を変えた心理的な支配-被支配の関係を再構築することにつながるし、直接謝罪させるために加害者に会わせるという「名目」が新たなコンタクト手段となり、最悪の場合さらなる被害の継続の機会を与えることにもなる。
これは本当の「毒親」というものを持った人にはすぐにわかることだと思うが、看護学校で学んだ「家族看護学」程度の基礎知識しかないわたしであっても、その行為の危険性はわかる。しかし長年虐待被害の後遺症に悩み続ける人にとっては、たとえどれほど危険なことであっても「何かが劇的に一変するかもしれない」という希望を持ってしまうのも想像はできるし、その希望を浅はかであると責めることもわたしにはできない。だからそういう「カウンセラー」にもある一定の需要はあるのかもしれないとは思う、代替医療のように、それはさておき。いじめの加害者にしても同じことで、彼らはいじめを通して他人が苦しみ、恥ずかしい思いをしたり泣いたりすることで自分の持つ能力を確認してきたのである。ここで自分が謝罪の言葉一つで簡単に他人の感情を動かせることまで教えてやってどうするのだろう?加害者が心から反省して、その「有能感」を今後いい方にだけ活用していってくれるだろうと信じるのはあまりにもおめでたいとしか言いようがない。もしいじめ加害者が「泣くまで」思い知らねばならないことがあるのだとしたら、それは自分が何を言っても周囲の誰もまともに聞こうとしない、誰も何も動かせない「無力感」だけである。
確かに「このいじめ対策」はすごかったのかもしれない。しかしそれは「厄介な問題」を収めるための、学校側のためのトラブルシューティングの方法としてであり、決して誰の何を守ると約束してくれるものではない。最低限の「被害者の身の安全の確保」すら。それを「かつての被害者」という人々があれほどまでに受け入れ、持て囃したのはなぜなのかと思う。
ペルーの報道機関Perú 21(おっぱいぼよんぼよんの娘さんの写真いっぱいの新聞で決してクオリティペーパーではないのだが)は記事の中で、いじめを「学校の抱える問題」としてではなく、人が人に対して行う尊厳を損なう行為であるととらえ、繰り返し教育省当局に尊厳の取り扱う範囲についてコメントを求めてきたが、その件については回答を得られなかったとし「そうしている間にも、彼ら(いじめ被害者)は死を選び続ける」と結んでいる。今回の友人との話の中で、何度も「orgullo(誇り)」「dignidad(尊厳)」「honor(名誉)」という言葉が出てきた。別にペルー人に限ったことではなく、南米人はよくこれらの言葉を使う。それは彼らの歴史の中で何度も損なわれては闘って取り戻してきたものであり、わたし達とは考え方も取り組み方も違うのかもしれない。しかしわたしは彼女が最初に言った「被害者の名誉を守る」という言葉に、わたし達には根本的に欠けているものを突きつけられたような気がした。
彼女は「いじめこそ、当事者だけの間で解決させて終わってはいけない問題」とも言っていた。周囲の何もしなかった、できなかった、直接関わることのなかった人たちが「被害者の名誉」を認め、被害者に自尊心を取り戻させなくては終われない、まして被害者がもう死んでいるのならなおさらのこと、名誉の回復をさせなくてはいけないのだと。これはいじめに限らず、犯罪や性暴力、虐待でもDVでも同じことだとわたしは思った。そして日本人はよく「過ぎたことは水に流して」という表現を使う。確かに日本のように多様性も流動性も低い社会では、「なかったこと」にして忘れることも処世術の一つではある。しかし謝罪が名誉を取り戻すわけではないし、まして忘れることが名誉回復の代わりになるわけではない。