文民統制の仕組みが取り払われてしまった

文民統制が変質している。安保法制に国民の耳目が集中している間に、当の防衛省内では背広組(キャリア官僚)の職権が削られ、制服組(幹部自衛官)の権限が飛躍的に拡大した。かつてのドン、守屋武昌さんには「大戦の惨禍の上に築かれた文民統制の仕組みが取り払われてしまった」と映る。戦後の大原則はいま。
 ――ログイン前の続きこの1年足らずの間に、文民統制の実効性にかかわる大規模な組織改革が防衛省でありました。危惧する声もあります。
 「国家の命運を左右する重大事がわずかな審議時間で国会を通過しました。法改正を受けて、昨年から制服組の大幅な権限拡大があったのに、識者もメディアも大きく取り上げない。不思議です」
 「従来、訓練や出動などの運用や計画は各幕僚監部と協議しながら文官の背広組中心の内局が『防衛相指示』を作成。それを踏まえ制服組の統合幕僚監部が実際の計画を作り、最終段階の『防衛相承認』を再び内局が起案してきたのです。『指示』『承認』に内局が関与することで制服組に対する背広組の歯止めが担保され、防衛省内の文民統制を強化する制度として位置づけられてきました」
 「ところが、法改正を受けて内局の運用企画局が廃止となり、背広組と制服組とで重なり合うように進められてきた運用計画の作成業務は統幕に集約。『制服組の判断を政治は追認するだけ』となる恐れが出てきました」
 ――中谷元前防衛相は制服組の権限拡大について、「文民たる自分が防衛相を務めることで文民統制は保たれる」と記者団の質問に答えています。
 「前大臣の発想は『軍事的合理性を自分が判断する』ということです。しかし、防衛族、元陸上自衛官の政治家でも海自・空自の防衛力の運用・整備に関する専門知識は限られます。軍事的合理性で押してくる制服組の要求はとてもシビア。大臣が判断する上で、常に陸海空と意見交換し、彼らの息づかいや限界を知る内局の役割は大きい。背広組のサポートなしには政治家による文民統制は機能しません」
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 ――旧憲法下で、軍の指揮命令権は天皇に属し、政府・議会から独立したものとされていました。やがて軍を制御できなくなり、勝てる見通しがないまま、戦線を拡大していきました。
 「結果として国の内外に今日に至る禍根を残し日本は敗れました。戦艦大和建造がよい例ですが、戦いに勝つための軍事的合理性をとことん優先するのが軍です。この軍艦があれば、この兵器があれば勝てる、問答無用だと財政を無視して突き進む。そうした国は往々にしてつぶれます。世界の国々がそこに気づきました」
 「日本も先の大戦に敗れ、たどり着きました。戦後、軍事組織を発足させるにあたり、各省庁から集められたキャリア官僚はみな戦争中の軍事教練や従軍歴がある人々でしたから、彼らは甚大な被害を生んだ大戦を教訓に『同じ轍(てつ)は踏むまい』と必死に知恵を絞りました」
 「国会、内閣に加え、防衛省内(保安庁、防衛庁)でも文民統制をおこなう。制服組による軍事の計画策定と実施について、軍事の『基本』を担当する背広組が、大臣の『指示』『承認』に関与する日本独自のチェック体制はそこから生まれたのです」
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 ――制度はうまく機能していましたか。背広組と制服組の対立が叫ばれ続けてきましたが。
 「私が入庁した1971年当時、問題があったのはむしろ背広組です。自分の父親ほどの自衛官数十人を前に、若いキャリア官僚が『お前らのせいで戦争に負けた』『精神論で勝てるなら、こんな装備は必要ない』と威張り散らしていたことに驚きました」
 「先述のとおり、防衛庁・自衛隊発足当時の内局は戦争を経験して軍事的な知見がある文官でしたから、自衛官にも説得力をもって対応できた。しかし、時代が進むと、戦争の悲惨さ、軍隊の実態を知らないのに、先輩たちを形だけまねて威張る文官も現れたわけです。そこで、若いキャリアへの教育が重要な課題になりました」
 「そのとき採用されたのが、海上自衛隊の入隊教育の一つ、遠洋航海への同行でした。訓練や講義には参加しないものの、5カ月間、規則にしばられた艦内で自衛官と寝起きをともにする。非常によく練られた研修で、入庁後の私も体験し、身をもって自衛官の働く現場を知りました」
 「ところが、次第に洋上訓練を苦痛だと忌避するキャリアが現れたり、語学などの研修を重視する時代の流れもあったりして、80年ごろ打ち切られました。90年ごろには当時の海幕長から復活を促す提案をもらいながら、それも内局側が断ってしまった。自衛隊の現場を知ることが文民統制の大前提ですが、文官がその努力を怠った。それが制服組の反発を生み、今日の事態を招いたとも言えます」
 ――反発、権限争いの原因はそれだけですか。
 「国会議員を含む文民が自衛官の任務遂行のために働こうとしなかったことも大きな理由です。有事の超法規的措置を語って自衛隊を去った栗栖弘臣統幕議長の一件(78年)がそうでした。内局の文官は有事法制の必要性を認識しながら立法に動かなかったのです。発言はそれと無縁ではなかった。信頼されるわけがありません。でも、当時の制服組は『自分たちが国の針路を誤った』との負い目から我慢してくれたんです」
 ――それも次第に変わった。
 「ええ、旧日本軍経験者が去り、防衛大出身者が増えると、事態は変わりました。特に海自は訪問国の港で海軍として最高級の歓迎を受ける。国内で自衛隊が憲法違反の忌むべき存在だった時期、海自だけはすでに解き放たれていました。なのに帰国すると自分たちの扱いが違う。納得できないし、省内には『内局優位』を口にする文官もいる。それが『法制度に問題あり』となって、政治家と結んで省内における文民統制の仕組みをひっくり返そうと動き始める人が、陸海空の中から現れました」
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 ――守屋さんの事件(2007年)や相次ぐ不祥事が起きてつくられた防衛省改革会議では「現代的文民統制のための組織改革」などの提言が報告書に盛り込まれました。今回の制度改正の原形です。
 「事件で世間を騒がせ、防衛省職員のみなさんにたいへんなご迷惑をかけたことは本当に申し訳なく思っています。ただ、その後の省内の文民統制の仕組みを変えてしまおうという動きは看過できません。背広組への積年の怨念から国を傾かせかねない行動をしてよいものかと思うのです」
 「制服組はまず、自らの限界を知り、歴史に学ぶ必要があります。陸海空はおのおのが何十もの専門職種に分かれた集団です。自らの職種に精通するだけでも長い時間を要し、40代後半まで部隊訓練と、技術・戦術を習得するための座学に追われます」
 「結果として、陸自の人間は海自、空自、内局の事情に通じていない。海、空も同じです。統合運用が重視されるようになった現在、統幕では陸海空全体の知識と理解が必要になります。さらに他省庁との調整といったことも加わってきますが、専門家集団に全体を見ながら判断することができるでしょうか」
 「政治家は、制服組に背広組の関与の排除を要求され、認めてしまったことを大いに反省すべきです。戦前の敗戦に至る一連の道筋は軍隊の暴走を、政治をつかさどる文民がくい止められなかった歴史でしょう。この法改正をした政治家はのちのち名前が残ります。仮に事態が暗転したときに『こんなはずではなかった』なんて言いわけは絶対に通用しません」
 ――防衛省内の文民統制の仕組みは歴史的な役割を終えたと話す人がいます。今の自衛官は民主主義教育をうけた世代で、戦前のような心配はいらないという見方もその一つです。
 「そうは思いません。確かに個々の自衛官は戦前と違う。しかし、繰り返し述べたように実力集団は軍事的合理性で行動します。その安全弁が改正法には見当たりません。せめて一案ですが、権限拡大に見合った義務として、今後は制服組にも国会答弁を求めるようにする。それは国民のチェックと向き合うことでもあり、新たな安全弁構築につながるはずです」(聞き手・藤生明)
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 もりやたけまさ 1944年生まれ。剛腕ぶりから「防衛省の天皇」と呼ばれた。防衛省汚職事件で逮捕、実刑判決。著作に「『普天間』交渉秘録」「日本防衛秘録」。

 ◆キーワード
 <防衛省組織改編> 防衛省は2015年10月、改正防衛省設置法(同年6月成立)に基づいて背広組が担う運用企画局を廃止し、部隊運用に関わる業務を制服組中心の統合幕僚監部に大幅に移す組織改編をした。運用計画の策定には大臣指示の起案、具体的な計画案策定、大臣承認の起案の3段階がある。背広組と制服組が綱引きした結果、このうち「指示」のみを内局の防衛政策局が所掌、「計画」「承認」を統幕が担当することになり、制服組の権限が格段に大きくなった。
2016-09-06 17:07