第3章 シゾイドパーソナリィ障害 Schizoid Personality Disorder(SPD)

第3章 シゾイドパーソナリィ障害 Schizoid Personality Disorder(SPD).
ジソイドでもスキゾイドでも同じ。schizophrenyをスキゾフレニーと発音する場合は、スキゾイドとなる。しかしシゾフレニーと発音するならschizoidはシゾイドとなる。どちらでもいいなら短いほうがいいのでシゾイドとしておく。小此木啓吾はシゾイドと言っていた。
そもそもドイツ精神医学で、病前性格としてのシゾチームと病気としてのシゾフレニーがあり、なにかその中間的なもの、単に性格傾向と言うにしては、すこしきつい感じ、しかし病気でもないというところなのだろう。系列として、シゾチーム、シゾイド、シゾフレニーと並ぶ。これをスキゾイドとスキゾフレニーでもいいが、シゾチームに関してはもう昔からシゾチームといっているし、アメリカ人がそもそも使わないことばのようで、スキゾチームという言い方も聞かないような気がする。だからスキゾチームはなくてシゾチーム、するとあとは、シゾイドとシゾフレニーになる。
スキゾとパラノという時は、スキゾフレニーとパラノイアの対比で言っているのだと思う。日本語のカタカナ読みをどうするかという瑣末な話。漢字に翻訳するとシゾフレニーは統合失調症シゾイドは統合失調質シゾタイパルは統合失調型
でもシゾというのは、もみじの葉っぱのように『分かれている』という意味で。フレニーは精神の意味なので、分裂と言わずに「統合が失調している」がシゾに当たるのだろう。DSMの翻訳の前書きのところには、ここで書いたことを参考に考えると、意味の分からない解説があったような気がする。
ほかにシゾタイパルがあり、これもスキゾタイパルでもいいと思う。
そもそも現代では統計学的にシゾチーム、シゾイド、シゾフレニーの系列の考え方は否定されているようなので用語も翻訳もバラバラでも構わない。むしろ別のものを使ったほうが誤解がないような気もする。
Narcissistic 自己愛的 の言葉にしても、ナルシスティックというのは省略のし過ぎで、ナルシシスティックになるでしょうね。面倒だし、まあ、カタカナで書く時はナルシスティックでいいといったのも小此木先生だった。

ポイント・シゾイドパーソナリィ障害(SPD)は孤独を好む。・他者との性行為やたていての楽しみごとは彼らにとって意味がない。・称賛も批判も意味がない。・感情は平板で他人に冷たい。しかし精神病のせいではない。
私は一人が好き。—–グレタ・ガルボ
他人と交わらないで一人で生きる人、社交しないで一人でいる人、これがシゾイドパーソナリィ障害(SPD)の古典的な例である。コンピュータが好きな人が多くて、他人から遠ざかっていたい人たち。感情的になる場面もないし、みんなのようにセックスや他の楽しみを味わうこともない。家族の結婚やお葬式のような大事な行事もSPDの人たちは別段何の感情もなくパスしてしまう。
職業的機能も損なわれてしまう。SPDの人たちは他人と付き合わないので職場になじまない。SPDが最初に現れるのは子供時代や思春期で、成績が悪かったり、孤独で、他の子供達にいじめられる。他人との親しい関係がないので孤独になる。第一度血縁に反応する程度で、基本的に非社会的である。彼らにとって他人の感情は謎である。ときには彼らは背景に取紛れてしまい、存在に気づかれないことがある。
SPD患者をあまりに早く社会化しようと試みるのはやめたほうがいい。特に治療の始めにはしないほうがいい。付き合いを強要されると分かったら、彼らはあなたの圧力に頑強に抵抗するだろう。そしてあなたが最高に気にかけていることを信じないだろう。治療して何年もたって、あなたにユーモアを示し、誰かとデートし、パーティに出かけるかもしれない。そして彼らは、自分が浪費した時間を悔やむかもしれないし、全く無視されてきたと愚痴を言うかもしれない。もちろん、あなたは彼らの行動を指摘することができるだろう。アイコンタクトがない、社交的笑顔がない、会話に参加しない。しかしそんなことを言われても、彼らの助けにはならない。あなたのアドバイスを理解しないだろう。どんなに励まして人と付き合いをさせようとしても、他人と一緒にいることを強要されるのは無理だろう。
キーポイント———-シゾイドパーソナリィ障害の人は、ストレスが加わると、極めて短時間の精神病を経験することがある。そしてもし精神病状態が続くようなら、シゾフレニーや双極性障害を考えたほうがいい。——–
———-症例スケッチジャネットは自然で美しいブロンド、ピンクの頬、透明な青い瞳。彼女が孤独愛好者だなんて誰もかつて一度も、考えたこともなかった。ボーイフレンドはカリフォルニアに彼女はニューヨークに住んでいた。二人は実際にときどきは実際に会っていた。実際の交流はたいていはe-メールで、ジャネットはメールは好きだった。しかしボーイフレンドは家の近くで女性を見つけて仲良くしていたようだった。ジャネットは抑うつ的になったのだが、抑うつの感情には彼女は馴染みがなかった。というのは、普段から多くの時間を彼女はほとんど何も感じていないのだった。彼女がうつ病の治療を希望したので精神科医はセルトラリン100mgを処方した。4週間して薬が効いて彼女は気分が楽になった。精神科医は週に一度の精神療法も受けた方がいいと勧めた。ジャネットが電話もe-メールも無視していたので、以前からあった関係二つは消滅してしまった。同じことを現在のボーイフレンドにもしていることを治療の中で話していた。しかし彼との関係を終わりにする気はないと言っていた。精神科医はジャネットに、もう一度コミュニケーションの道を開くことはできますよと、いろいろな方法で伝えた。彼女は同意したが、どの提案も受け容れず、治療に来なくなった。
ディスカッション彼女の精神科医はおそらくジャネットをSPDと診断したと思う。彼女はDSM-IVの診断基準を満たしている。社交関係からひきこもる広汎なパターンを呈している。対人関係場面で感情表出が限定されていて、それは成人期初期に始まっている。さらに(1)親密な対人関係を求めないし楽しまない。(2)彼女はいつでも孤独な活動を選択する。(3)他人とのセックスにほとんど関心がない。(4)感情が冷たい。
キーポイント———-SPD患者は奇妙だとは思われない。普通でよそよそしい感じがする。—————-
もし患者が孤独を好み、ただよそよそしいだけで、奇妙さがなかったなら、たぶんSPDだろう。もし患者に奇妙なところがあり、たとえば、魔法使いが隣の部屋に引っ越してきたのでテレビが映らなくなったとか信じているのなら、診断はシゾタイパルパーソナリティ障害か精神病かだろう。
SPDの難しさは、多くの医師がSPDの社会的引きこもりや感情的なよそよそしさをパーソナリティ障害とは考えずに心理防衛機制と考えるところにある。引きこもることによって自分を守っていると解釈すれば、あえて治療することには疑問が生じるだろう。子供のSPDは成人のシゾフレニーの前触れであることがある。ディメンジョン診断アプローチ(第31章参照)では、シゾイドパーソナリティは、孤独、猜疑心、自己反省のスコアが高い。
SPD患者はすべての出来事を自分のプライベートな境界の侵略ととらえることが多い。たとえば、患者の母親や誰かが患者の部屋に入ってきたとすれば、あまりに侵略的だと受け取るだろう。学校に行こうとして家を出たら、二度と親には連絡を取らない。親が電話しても患者は他人のふりをしたり電話を切ってしまったりする。そして電話番号を変えてしまう。このSPD患者は、両親を遠くから見ていて、彼らにお金を送っているというファンタジーを持っていた。学校では社交が全くできなかった。卒業してから、金融系で働き、他人から孤立したままだった。この患者は自分を非常に醜いと思っていて、社交には不適応だった。実際には外見は完全に普通であり、患者と話したことのある人はみんなが、彼は普通だと信じた。彼の現実検討能力は保たれていたが、自己評価は低かった。賞賛されても批判されても彼には影響を与えないようだった。
大多数のSPD患者は親密な対人関係を決して持たないし、他人に感情的に反応しない。他人から離れていることと感情が限定されていることはSPDの診断につながる。加えて、SPDでは家系にシゾフレニーの人が多い。SPDからシゾフレニーに至る連続体(スペクトラム)が考えられ、健康な側がSPDで、重症の側がシゾフレニーである。
ーーーーーそういう考えがあったし、いまもある、と言うべきだろう。確定された説とは言えないような気がする。
DSMでは以下の項目が並んでいて、4つまたはそれ以上と指定されている。(1)家族の一員であることを含めて、親密な関係を持ちたいと思わない、またはそれを楽しく感じない。(2)ほとんどいつも孤立した行動を選択する。(3)他人と性体験を持つことに対する興味が、もしあったとしても、少ししかない。(4)喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない。(5)親兄弟以外には、親しい友人または信頼できる友人がいない。(6)他人の賞賛や批判に対して無関心にみえる。(7)情緒的な冷たさ、よそよそしさ、または平板な感情。
このタイプは最近の高度情報化社会、核家族化、コンビニ、一人住まい、などにかなりぴったりのタイプである。現代社会では誰かにそばにいて欲しいと思うと、その他人を束縛することになるので、かえって苦しくなることもある。そんな状況では、SPDは悪くない適応形態であるような気もする。ただ、子孫を残すにはある程度の社会性や親密性が必要なので、その点では不利である。つまり、個体生存には現代社会では問題がない。しかし種の維持には適さない。そのような一面はあるのだと思う。

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グレタ・ガルボとかマリア・カラスとか、パリの街でひっそりと暮らしていたI prefer to be alone. 
2013-03-27 19:46