汝自身を知れ

自分自身を知ることは難しい

鏡を見れば分かりそうなものだけれど
たいていは「この鏡が歪んでいる」と思うものだ

ということは鏡によって歪められていない
本当の自分の姿を知っているということになるのだろうか

そして長い間見続けていると歪んだ顔が当たり前になり
美しくさえ思えてくる
恐ろしいことだ
そして自分に似た要素を持つ他人を好きになる

電車で見かける夫婦や恋人たちのどことなく似ている顔つき

ナルシスは池に映る自分に恋をする

もう自分の顔が歪んでいるとも鏡が歪んでいるとも
考えなくなっている
大抵の場合は両方が歪んでいるのだが
平凡な幸せのためには
何も知らないほうがいい

ところがそんななかで
白雪姫の継母の鏡は無慈悲に真実を告げる
誰も幸せにならない真実 

白雪姫の継母の鏡は「声」で真実を告げる
その声の主は誰か

声の主は社会である

人間は社会の中に生きることなく
ただ自分と向き合っているだけのとき
途方もなくナルシストである
二人でいる時も自己愛を備給しあうだけで基本的にナルシストである

三人になったとき
この人は自分ともう一人とどちらが好きなのだろうと
疑念がわく
この意味での嫉妬は基本的に重要である
ある人から見て、私はもう一人より上なのか下なのか

この人には自分ともう一人がどのように見えているのだろうかと想像を始める
その想像の総体が社会である

ここでいう社会とは自由平等で一人が一票の民主主義社会ではない
社会科で習う社会ではない

想像上の嫉妬と優越感の総体
その中に自分というものが位置づけられる
ある種の座標軸

動物行動学では順位性社会を説明して
それを社会の原型とする
それも強力な説明である

しかしそれを原型として
そこからどの程度妄想的に離れるかが人間のありようである

自意識というものを持たない場合は
動物行動学の原理が原理となるのかもしれない

しかし自意識はそれを修飾してさらには逸脱してゆく

逸脱した自意識が見事に同期して集団として機能している
そこが奇跡だと思う

法というものをなぜ認め合っているかといえば
ほぼ全ては恐怖のためだと思うが
極めて一部は、このようにして生成された個人内部の社会が、集団に共有されるとみなされる部分があり
それを法とみなしているものだろう