イノベーション

採録

経済成長において全要素生産性(TFP)がもっとも重要な要因だという事実は、経済学で広く認められている。TFP が具体的に何を意味するかについては諸説あるが、広い意味でのイノベーションであることは確かだろう。つまり「成長戦略」を考える上では、イノベーションをいかにして高めるかがもっとも重要な問題であり、経営学では中心的なテーマである。ところが経済学には、イノベーションについての理論はほとんどない。新古典派理論は結果としての均衡状態を記述する学問なので、その過程としてのイノベーションは扱えない。ミクロ経済学でイノベーションに関連するのは特許や競争政策など産業組織論の応用で、マクロ経済学では内生的成長理論の一部にすぎない。しかし最近ようやく経済学でも、経営革新や起業家精神についての研究が始まった(e.g. Baumol [2010])。本稿では行動経済学や認知科学の成果を参照してイノベーションの認知構造を考える*。
1.ビジネスモデルの革新日本の企業はイノベーションを技術開発と取り違え、特許の取得に多額の経費をかけている。おかげで日本企業の特許取得件数は人口あたり世界一だが、収益に結びついていない。特定の技術が性能的にすぐれているかどうかは競争優位の必要条件でも十分条件でもないからだ。新しい事業を興そうとする場合、まず何を売ればもうかるかというアイディアがあり、その上で収益を上げるビジネスモデルを考え、技術はそれに適したものを選ぶ(あるいは開発する)。イノベーションの本質は技術ではなく、このビジネスモデルの革新にある。ビジネスモデルという言葉は新しい。その起源はデル・コンピュータともいわれるが、よく使われるようになったのはインターネット・バブルのころである。いわゆるドットコム企業が資金を調達するとき、目先の業績が赤字でも将来は黒字化するビジネスモデルがあれば資金を得られた。製造業のビジネスモデルは商品を売ることしかないが、ドットコム企業では情報を無料で提供する場合が多いので、それでどうやって利益を上げるかは説明が必要だった。その大部分は目算どおり行かなかったが、中にはアマゾンやヤフーのように新しいビジネスモデルを確立した企業もあった。                                                  
ヤマト運輸の創業者、小倉昌男氏は、ニューヨークの街角に UPS(アメリカの運送会社)の配送車が 4 台止まっているのを見て、宅急便ビジネスを発想したという。彼は大口輸送に限界を感じ、小口の宅配で収益を上げるシステムはないかと考えていた。従来の運輸業の常識では、1 台あたりの配送区域をなるべく広く取るのだが、宅配のように対象が多いと効率が落ちてしまう。そこで逆に 1 台あたりの配送区域を狭くして配送車を増やす方式を思いついたのだ。もちろんそれだけではだめで小口輸送のために配送システムを変える必要があるが、このときの彼の発想がなければ、輸送データをいくら分析しても宅急便というビジネスモデルは出てこなかっただろう。逆に小口輸送で効率を上げるというモデルで問題を考えれば、今まで解けないと思われていた問題が解けるようになる。石井[2009]は、このようなビジネスモデルの革新を「ビジネス・インサイト」と呼んでいる。多くの企業ではビジネスモデルを意識することは尐ないが、実際には既存商品をただ売ればいいということはほとんどないので、いろいろな面でビジネスモデルが必要になる。この場合もっともよく行なわれるのは、無意識のうちに既存のビジネスモデルを踏襲することだ。たとえば「電子書籍」のビジネスを「書籍」の延長上で考え、著作―出版―販売という従来のルートに乗せて売ろうとすると、中間マージンが大きすぎて採算に乗らない。こういう場合、今までのビジネスで意識されていなかったビジネスモデルを意識化することが重要である。たとえば編集という業務は従来の出版の中心だが、その本来の役割は手書きの原稿をチェックして印刷会社に渡すことだ。書籍が電子ファイルになれば、著者が最終的な書籍を編集することもできるので、編集者は不可欠ではない。アマゾンのDTP(Digital Text Platform)のような電子出版システムでは、規定のテンプレートにそって著者が入力すればそのまま書籍になり、それを送ればそのまま販売するという手法をとっている。こうすれば、従来の出版社に相当するコストはまるまる省け、販売価格の 70%を著者に還元することもできる。
2.発見の論理このようなイノベーションの性格は、科学的発見に似ている。素朴な経験主義では、市場調査によって顧客の要望をきき、そのデータから「帰納」して技術を開発すると考えるが、これは論理的に誤りである。最初にあるのは仮説であり、それなしでは裸のデータから何も帰納することはできない。この問題を最初に明確な形で指摘したのはデヴィッド・ヒュームだろう:すべての事実の逆もまた可能である。それは論理的な矛盾をきたさないし、他のすべての物事と同じように精神によって同様にたやすくはっきりと認識できるからだ。太陽があす昇らないという命題は、それが昇るという肯定命題と同じく意味があり、矛盾もない。(Hume [1772] PartⅠ)3きのうまで太陽が昇ったことは、あす同じようにそれが昇る根拠にはならない。科学的法則とは今までそうだったという経験則にすぎず、どのように多くの経験からも理論を帰納する論理はないのである。このパラドックスは単純だが強力で、カントを「独断のまどろみ」から目覚めさせた。経験から理論が帰納できないとすると、最初に存在するのは対象ではなく、世界は一定だという私の仮説である。思考を支える時間や空間などの枠組をカントはカテゴリー(範疇)と呼んだ。20 世紀の科学哲学では、命題→演繹→検証→帰納→理論というサイクルで科学が発展するという論理実証主義が主流となった。これに対してカール・ポパーは、ヒューム的な懐疑主義にもとづいて、いくら実験で命題を検証しても反例が出ない保証はないと批判した。彼は理論が科学かどうかは「反証可能性」によって担保されると主張したが、ある反例が理論を否定するかどうかも自明ではない。有名な例としては、地動説に対する反証として「年周視差」が観測されなかった。地球が公転しているとすれば、遠くの恒星の見える角度が季節によって変わるはずだが、16 世紀の望遠鏡では観測不可能だった。ある観測や実験が理論を反証するかどうかに客観的基準はなく、最終的には科学者集団の依拠している信念の体系としてのパラダイムに依存するのである(クーン[1971])。科学も宗教も、カトリックやプロテスタントといった教義(パラダイム)を共有した上でしかコミュニケーションが成立しないという点で本質的な違いはなく、ただ事実を観察していれば新しい発想が生まれてくるということはありえない。
3.暗黙知とゲシュタルトウィリアム・ジェームズは、認識を反射的・本能的・感情的な「第一次機能」と意識的な「第二次機能」に分類した。この第一次機能をマイケル・ポランニーは暗黙知と呼んで彼の認識論の中心概念にした。この言葉は日本では野中郁次郎氏などによって経営学ではおなじみだが、彼のいう暗黙知は数値のような「形式知」と対立する職人芸という意味で、これはポランニーのいう暗黙知とはまったく違う。ポランニーは暗黙知の概念を、心理学でいうゲシュタルトの概念で説明する。次ページの図は杯のように見えるが、白い部分に注目すると 2 人の向かい合った顔に見える。この場合、前者の場合には黒い部分(杯)が図で白い部分が地と呼ばれ、後者の場合には白い部分(顔)が図になる。ただ初期のゲシュタルト心理学では、図と地の配置を電気的な刺激によって形成されるものと考えたが、ポランニーはこれを批判して「ゲシュタルトは、認識を求める過程で能動的に経験を形成しようとする結果として生起するものである。この形成もしくは統合こそ、私が偉大にして不可欠な暗黙の力とみなすものに他ならない」(ポランニー[2003]p.21)と指摘した。4この図が「物自体」として杯なのか顔なのか、という問いには意味がない。まずそれをどういう見るかというゲシュタルトがあり、それに依存してこの絵の意味が決まるのだ。暗黙知とは、このように認識を可能にする暗黙の枠組のことである。ポランニーは、このようなゲシュタルト転換の例として量子力学をあげている。プランクが 1900 年に量子の概念を提唱したとき、彼の使ったデータはすべて公知の事実だったが、その本質的な意味を理解したのはプランク一人だった。その後、彼の仮説を支持する実験結果が出てきても、量子力学が学界では受け入れられるまでには 11 年を要した。このように一定のゲシュタルトが社会的に広く共有されると、それと矛盾する事実は例外として無視されることが多い。科学的な学説の場合には、その決着をつける観測や実験という手段があるが、それでもその結果をどう解釈するかについては議論がわかれる。たとえば天動説も、惑星の数だけ「補助仮説」を加えれば天体の運行を説明できる。コペルニクスが地動説を唱えたのは 1542 年だが、ローマ・カトリック教会がそれを公式に認めたのは、1992 年になってからだった。
4.フレーム問題ゲシュタルトあるいはパラダイムの概念を一般化して、認知科学の言葉でフレームと呼ぶことにすると、イノベーションとは既存のフレームを疑い、新しいフレームを創造することと定義できる。初期の人工知能では、対象のフレームは多くのデータから帰納して決められると考えたが、うまく行かなかった。この問題を提起したのは MacCarthy-Hayes [1969]だが、1980 年代に人工知能の開発が盛んになってから「フレーム問題」は認知科学の最大の難問となり、人工知能が挫折する原因となった。80 年代に日本で「第 5 世代コンピュータ」の研究が行なわれたころ、人工知能の最大の5応用分野として期待されたのは、自然言語処理だった。特殊なプログラミング言語ではなく、コンピュータに「それをやっておいて」と指示すればやってくれる、というのが当初の目標だった。これは最初はそれほどむずかしい問題とは思えず、文法を理解するパーザ(構文解析プログラム)と語彙についての知識ベースを組み合わせればいいと思われていた。たとえば机の上に鉛筆があります。という文を生成文法などのパーザで解析し、英語に訳すことはそれほど困難ではない。グーグルなどについている自動翻訳でも、文章としては読みにくいが意味は通る。しかし机の上に鉛筆があります。それを取ってください。という文章を理解して、ロボットが作業を行なうことは非常にむずかしい。「それ」が机なのか鉛筆なのか判断できないからだ。人間なら子供でも持っている常識をコンピュータはもっていないので、それを教えないと動かない。しかし「鉛筆は机の上にあるものだ」といったアドホックな形で常識を与えても、今度は机の引き出しに鉛筆が入っています。それを取ってください。という文の「それ」はどこにあるのかわからない・・・というように際限なく常識が必要になる。このように対象が含まれる大分類をフレームと呼ぶが、論理的にはすべての名詞を解釈するために必要なフレームは無限にある。第 5 世代プロジェクトの初期には、こうした知識を論理型言語(Prolog)で記述し、たとえば鉛筆を「筆記具」というフレームに入れ、他のフレームとの関係を論理的に表現して知識ベースを構築しようとした。しかしフレームはほとんど無限にあるので、たとえば小学校 3 年生の国語の問題を 1 題とくために 1年かかって知識ベースを入力しなければならないというように入力が出力をはるかに上回り、自然言語の機械処理は失敗した。
5.メタファーとフレーミングこのような人工知能の挫折は、言語学でチョムスキーを中心とする生成文法が没落する過程とも並行していた。人工知能の主要な分析用具だった生成文法は、実際に使ってみると大部分の処理が語彙と例外処理にあてられ、非常に効率の悪い道具であることが判明したのである。これに対して言語学で出てきたのが、「格文法」と呼ばれる理論だった。これは、たとえば机は「対象格」、鉛筆は「道具格」のようなフレームをもっていると考えて意6味解釈の精度を上げようとするもので、伝統的な構文論と意味論の区別をなくし、意味解釈が構文の基礎にあると考えるものだ。同じような理論が 80 年代に出て、「認知言語学」と呼ばれるようになった。その内容は多様だが、もっとも有名なのはレイコフ[1993]のメタファー理論だろう。これは言語の本質は文法ではなく意味にあると考え、すべての言語活動をメタファーの操作と考えるものだ。ここでは、対象をどういうメタファーに分類するかが決定的に重要で、そこから意味が決まり、それをつなぐ文法にはほとんど情報は含まれていない。行動経済学でも、フレーミングは重要な概念である。プロスペクト理論として知られているように、人々の価値は新古典派理論の想定するように富の増加関数として決まるのではなく、参照点(過去の値)からの差分で決まる(Kahneman-Tversky [2000])。たとえば同じ 1000 万円の資産をもっていても、昨年 800 万円だったのが増えた人と 1200 万円だったのが減った人では、前者の満足度のほうが大きい。また 200 万円増えることのプラスの評価より 200 万円減ることのマイナスの評価のほうが大きい。このような「保有効果」は、人々が過去から受け継いだ状態を既定のフレームとして価値を評価するためと考えられる。同様の現象は普遍的にみられ、コンピュータなどの初期値を決めておくと、多くの人々はそのまま使う「初期値効果」や、過去に投じたコストを守ろうとするサンクコストの錯覚、あるいはインフレやデフレに気づかない貨幣錯覚なども、既定値に依存する傾向を示している。
6.脳科学とフレームこのように変化をきらい、既定値を基準にして行動する傾向は、脳の構造に起因すると考えられる。脳のもっとも重要な機能は、膨大なニューロンを「私」という一つのフレームに統合することである。感覚器官の受ける刺激はきわめて雑多なもので、これをばらばらに認識して個々のニューロンが勝手に動いたら個体は生存できない。したがってこうした感覚を統合して、一貫したメッセージとして解釈することが脳の重要な機能である。脳は進化の初期の段階でつくられたまま、ほとんど使われていない古い機能も常に「オン」になっているので、わずか 1.3kg の器官を維持するために人間の摂取するエネルギーの 2 割が使われている。素子(ニューロン)の性能は半導体の数万分の一以下しかなく、処理速度も正確さもはるかに劣る。その代わり脳は、1000 億のニューロンと 500 兆のシナプスからなる超並列コンピュータで、この並列処理によって素子の低性能を補っている。たとえば眼球の機能は不完全なので、情報の入力は不安定だ。次ページの図は「サッカード」(視点運動)とよばれる現象の実験で、左側の写真を 4 分間見ると、右側のように眼球は頻繁に動くが、被験者はまったく静止した写真として知覚する。これは実際には激しくぶれている視覚情報を脳が編集しているからだ。7このように処理能力の足りないニューロンの断片的な入力情報を編集して物語をつくるのが、脳の重要な機能だ。ガザニガの有名な実験は、脳科学の入門書によく出てくる:分離脳の患者の視野をまん中で仕切って右と左が別々に見えるようにし、右目(左脳)にはニワトリの足先を見せ、左目(右脳)には雪景色を見せた。そのあと別の絵を見せて、患者に先ほどと関係のある絵を選ぶようにいうと、右手(左脳)でニワトリ、左手(右脳)でシャベルを選んだ。そこで仕切りをとって、患者に「なぜニワトリを見てシャベルを選んだのか?」と質問すると、「ああ単純なことです。ニワトリ小屋を掃除するにはシャベルが必要だから」と答えた。([8]p.415)この患者の言語中枢は左脳にあるので、右脳(左目)が雪景色を見たことを知らない。右脳(左手)は雪景色を見てシャベルを選んだのだが、それを知らない左脳は、ニワトリとシャベルを結びつける物語を咄嗟につくったのだ。しかも患者には物語をつくったという意識がなく、「私の行動の理由は私が知っている」と主張した。このような実験例は多く、夢も左脳がランダムな記憶を無理やり奇妙な物語に編集したものと考えられている。右脳が感じるばらばらの感覚を左脳が「私の感覚」として統合する機能が「自我」の意識を生み出し、行動の整合性を生み出しているのだ。脳が分離している患者も自分が 2 人いるとは感じず、すべて「私の行動」だと考えている。
7.フレームの共有フレームやメタファーは、イノベーションを考える上で重要である。日本の企業は、輸入した技術を洗練して品質を管理するのは得意だが、これは科学でいえば既存の仮説(フ8レーム)を拡張して新しい命題を導くようなもので、基本的には論理で解決できるタイプの問題である。これに対してイノベーションは今までとは違うフレームを作り出すことであり、それが正しいかどうかは既存のフレームの中では証明できない。これを科学哲学で通約不可能性とよぶ。たとえば「天動説では惑星の運動が説明できないため地動説が出てきた」とよくいわれるが、これは事実ではない。天動説では、惑星と恒星はまったく別の種類の天体であり、両者が別の法則で動くことには何の不思議もなかった。恒星はすべて同じ法則によって回転しているが、太陽や月は別の法則で回転しており、惑星は固有の複雑な運動をしているが、それにも周期があって予測可能である。すべての天体の運行は(やや複雑ではあるが)天動説で説明できたのだ。天動説の一つの欠陥は、恒星との距離が正確に測定できるようになって、それが数十万光年という非常に遠いところにあることがわかったことだ。もし恒星が実際に天球を回転しているとすると、それは光速よりはるかに速いスピードでいっせいに運動していなければならない。それに対して、地球が惑星の一つであると考えると、仮説はそれ一つだけでよい。現実には科学者集団とカトリック教会の政治的な闘争の結果として数百年かかってパラダイム転換は行なわれた。ローマ・カトリック教会が地動説を公式に認めたのは 1992年である。どの仮説が正しいかを論理的に決める方法は、原理的にはない。多くの人にパラダイム(フレーム)が共有されるかどうかで「科学革命」は決まるのである。同様に、ビジネスにおいても顧客の共感を得るかどうかでビジネスモデルの優劣は決まる。製造業においては、その手段はよいものを安くつくることだけだったが、サービス業では要素技術がすぐれていることは決定的な要因とはならない。アップルの iPad のように要素技術は平凡なハードウェアでも、顧客が「クール」だと思えば売れる。これは標準化でも同じで、性能で劣る VHS がベータマックスに勝ち、MS-DOS がマッキントッシュに勝ったのは、そのプラットフォームが多くのユーザーに共有されたからである。いいかえれば、IT やサービスで競争優位の源泉になるのは、プラットフォーム競争で顧客とフレームを共有するための多数派工作であり、これは科学者集団の競争と本質的には変わらない。
8.むすびイノベーションの出発点になるのは技術開発でも市場調査でもなく、新しいフレームを発見することである。これがデータから帰納できないとすれば、その方法論があるのかということが問題になる。これについてはパースの abduction 以来、多くの議論があるが、晩年のクーンが示唆したように、広い意味での進化によって「生成」するものと考えることができるかもしれない。これが今後の研究課題である。他方、どのような方法をとると失敗するのかは、かなり予測可能である。日本企業のコンセンサス重視の意思決定から、画期的なイノベーションを生み出すことはむずかしい。9イノベーションは既存のフレームや合意を無視して新しい仮説を設定し実行することだからだ。日本企業の競争優位の源泉になったのは、企業内・系列内の長期的関係で濃密にフレームを共有するしくみだったが、いま知識集約型の産業で重要になっているのは、新しいプラットフォームを創造する大胆な発想と、それをリスクを取って事業化する起業家精神である。このためには初期にはオーナー社長のような強力な経営者がトップダウンで意思決定を行なう必要があり、日本企業の既得権やコンセンサスを重視するボトムアップの意思決定は不連続な転換に弱い。これは既存の企業を改革してもだめで、必要なのはシュンペーターも説いたように、従来のフレームにとらわれない新企業が「創造的破壊」を行なうことである。したがって企業の新陳代謝を促進する資本市場の活性化と、人的資源の再配分を実現する柔軟な労働市場が不可欠である。この二つの改革が遅れていることが、日本の長期停滞のコアにある。それを放置して、既存の大企業の「協議会」に補助金を投入する「成長戦略」は必ず失敗する。
参考文献Baumol, W. The Microtheory of Innovative Entrepreneurship, Princeton U.P, 2010Hume, D. An Enquiry Concerning Human Understanding, 1772Kahneman, D. and A. Tversky, Choices, Values, and Frames, Cambridge U.P, 2000McCarthy, J. and P. J. Hayes “Some  Philosophical  Problems from the  Standpoint of Artificial Intelligence”, Machine Intelligence, 1969.石井淳蔵『ビジネス・インサイト』岩波書店、2009ガザニガ『人間らしさとは何か?』インターシフト、2010クーン『科学革命の構造』みすず書房、1971ポランニー『暗黙知の次元』筑摩書房、2003レイコフ『認知意味論』紀伊国屋書店、1993