元々の発想は、小脳の機能がモデルなんです 小脳は運動に関係していて、いちいち考えなくても、自動運転で 水泳や自転車乗りができるようになる、その自動運転回路が小脳にできるのだという考えがあるわけです 最初に自転車に乗る時には あちこちの感覚情報を集めて、さらにあちこちの運動情報を制御して、 疲れ果てるという感じで自転車に乗る しかし慣れてくると自動運転みたいに出来て、 自転車に乗りながら、考えごとをしたり、歌を歌ったり、いろいろと出来るようになる 小脳でそのような運動系の自動運転が出来るのなら、 大

元々の発想は、小脳の機能がモデルなんです

小脳は運動に関係していて、いちいち考えなくても、自動運転で
水泳や自転車乗りができるようになる、その自動運転回路が小脳にできるのだという考えがあるわけです

最初に自転車に乗る時には
あちこちの感覚情報を集めて、さらにあちこちの運動情報を制御して、
疲れ果てるという感じで自転車に乗る

しかし慣れてくると自動運転みたいに出来て、
自転車に乗りながら、考えごとをしたり、歌を歌ったり、いろいろと出来るようになる

小脳でそのような運動系の自動運転が出来るのなら、
大脳の一部分で、思考や判断の自動運転ができても悪くないはずだろうということになる

(この、思考の自動運転というところが、強迫性障害であったり、不安精障害の場合の侵入思考であったりするわけです、
鬱の場合であれば、悲観的認知スキーマということになるでしょう)

ということは、少なくとも、思考の自動運転と「マニュアル運転」部分があり、
最初はマニュアル運転であるが、徐々に自動運転に切り替わっていって、
日常の思考の負担を減らしているのだろうと推定される

たとえば数学などでは、だんだん難しい複雑なことをやるようになると、
簡単な部分はいちいち検証しないで、公式とかそんな感じでまるごと結論を使ったりする。
そのようにして思考を一部自動化して節約する。

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さて、この、思考のマニュアル運転部分と自動運転部分を並列的に動かしておいて、
結論を比較照合したらどうだろうか。
比較照合すれば、自動運転でうまくいかない部分を訂正して、より精密な自動運転ができるようになる。
精密な自動運転が出来るということは、精密な世界モデルが内部に形成されるということになるだろう。
そういう利益が一つ考えられる。

また、自動運転部分からの出力とマニュアル運転部分からの出力を比較して、
その到着の時間差を考えてみる。

マニュアル運転部分からの信号が早く到着して、そのあとで自動運転部分からの信号が到着すれば、
それは自我機能の中の、自由意志を感覚することにつながるだろう。

時間差がなくなれば、自生思考となる。思考の能動性がゼロになっている。

時間差が逆転して、自動運転部分からの信号がマニュアル運転部分の信号よりも早く到着してしまうと、
これはさせられ体験となる。

強迫性障害は、行為の自己所属性は保たれているが、能動性は失われている状態であって、
自生思考とさせれ体験の中間型となる。

幻聴というものは、脳の内部で音が発生して、そうしたノイズの中に意味を見出すのだろう
という考えはあるかも知れないが、それは視覚の場合のパレイドリアと類似の解釈である。

しかし一般に統合失調症の場合の幻聴は、音のノイズが発生するのではなく、
被害的思考が発生し、それが「声」として知覚されるというだけのことだろう。

被害的思考は、侵入思考のひとつのタイプとして考えても良いものであって、
通常はそれを打ち消しているのだが、打ち消す機能が弱まり、そのまま表面に出てしまう。

思考は文字で感覚されるのではなく、声として感覚される場合が大半なので、幻聴となる。