人生は愉しいものなのか

最近の私のブログを見ていて
面白くもなんともないので
後輩は
自分が西表島・イリオモテジマに行った時の写真があるので
これを見て元気を出して、出来ればなんかの投票を頼むとかの事だった

確かにすごいです
ダイバーでもないし写真家でもないし
それなのにこんな写真をオリジナルで撮影しているんだから

で、こうして見せてもらうと、それだけで充分、という気がするんだ

私が自分でイリオモテジマに行ったとして
天気がいいかどうか分かんないし
私、海に潜るなんてできそうにないし
根性出して海底を散策する元気もないかもしれないし
もういい年なんだし
いろいろリスクを勘案すると
こうして写真を見せてもらって
ぐっと人生の経験が深まって広がって、それでいいよもう

何かしたいことないのかとか言われる
別に何もない
テレビ番組ですごいと思うのは世界遺産とかそんなやつだけど
自分で行っても私は眼が悪いし
体調管理が難しいから
ハイビジョン映像を見ているくらいで充分幸せである

直接経験すれば詩のひとつでもできるのかもしれないが
別にそんなことのために生きているのでもないし

パリの石畳の感触がどうとかそんなこと

たぶんpeak experience とかと関係するのだと思うけれど
それは別に旅行なんかしなくても日常生活の中で工夫していけばいいことだし
それもなければないで不都合なく生きて行かれるものだ

不思議が見たいとか多様性に驚嘆したいというならば
人々の人生や感情を日々見ているので
ここの写真と同じくらい不思議な感じはしている

人間の脳がどうなっているのかというと
いろんな経験を圧縮してタイトルを付けてそれに多少のタグを付けて収納しておいて
必要に応じて引き出してきて
経験と経験の内的関連を考察して
深く納得する
というプロセスなんだと思う
それでいうと、物事を抽象的に考える場合には
考える素材がある程度抽象的に圧縮された形で与えられても同じ程度ではないかという気がする

実際に自分が経験したことはあまりよくないことも多いので
そこらへんの関係で生きる意欲が今ひとつなのかもしれない

自分で経験したことなのか夢なのか本で読んだことなのか映画で見たことなのか
なんて迷うことがあったりして
でも最終的にはどれかなんてあまり関係ないと思う

間接的体験の変なところはそれが自然そのものではなくて
何れにしても加工されている点だ
だから多少の嘘なんだと思う
しかしまあ、ひどい捏造でなければ、それでもいいだろう

難病で生まれ世界をほとんど経験しないで死んでゆく子供たちがいる
それに比較すればいろんな人の話が聞けるしいろんな物を食べられるし
ありがたいことだと思うけれども
時間が少し違うだけでそんなに本質的には違わないような気もする

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