“先の大戦の米国への挑戦が終わり、今度は10億の民を抱える中国への挑戦か。大きいものへの挑戦が好きだなあ。だが、勝算が無いのは昔大勢翼賛、今護送船団だから、ムリ筋であるのは同じだろう。    小さいものが大きいものと闘うには、綿密な戦略が必要であるが、護送船団方式というのは、結局は烏合の衆同様、互いにもたれ合っているだけで、自分が当事者であるという自己責任意識が完全に希薄というか、無である。    攻撃、反撃、などと勇ましいことを放言しても、政権党は、外交は何とか外務官僚が収めてくれるだろう、と楽観的だ。

"先の大戦の米国への挑戦が終わり、今度は10億の民を抱える中国への挑戦か。大きいものへの挑戦が好きだなあ。だが、勝算が無いのは昔大勢翼賛、今護送船団だから、ムリ筋であるのは同じだろう。
   小さいものが大きいものと闘うには、綿密な戦略が必要であるが、護送船団方式というのは、結局は烏合の衆同様、互いにもたれ合っているだけで、自分が当事者であるという自己責任意識が完全に希薄というか、無である。
   攻撃、反撃、などと勇ましいことを放言しても、政権党は、外交は何とか外務官僚が収めてくれるだろう、と楽観的だ。だが財界は起死回生で軍需産業に生きるしか術が無い。だが特段手立ても無く、米国から爆買いした中古兵器を途上国へ再販するくらいしかないが、それは通産官僚が考え、対応してくれるだろう、と言う訳だろう。閣僚は面子のために中国を仮想敵国とし、財界は軍備の増強が経済の突破口になると考え、両者に頼られている官僚機構は、最後には責任は主権者国民となる議会制民主主義国では、どんな結果になろうとも、天下り先の確保のことでも考えていれば良い、という、完璧な無責任意識の集合体が、昔大勢翼賛、今護送船団である。
  従って、無責任体質ゆえに、後先考えずに、米国だろうが中国だろうが、「果敢に」軍事による挑戦を公言する。チワワがドーベルマンと闘うようなことは、まともな感覚であれば避けるのだが、最後は誰かが何とかしてくれるだろう、という相互依存の護送船団は、それをして「果敢な挑戦だ」、と豪語するのである。
  しかしながら、狭い日本列島に54基も張り巡らせた原発の数は異常であり、米国の国土面積と比較すれば4基が妥当であるにもかかわらず、全く躊躇無く設置し、事故など絶対に無い、として、少しでも危惧する者は罵倒、冷遇し続け、遂に爆発させ、世界の海を汚染させ続けているのであるから、これだけ見ても、政府の「挑戦」が、如何に成功、勝算の根拠の無いものであるかが伺えるのである。
  無謀な米国への挑戦が中国に代わっただけであり、その根底に昔大勢翼賛会、今護送船団という相互無責任体質が有る以上、大変危険なことである。"