「パリ、テキサス」

採録
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4年の放浪の果て、男は息子と一緒に女を捜しはじめる。
そしてヒューストンの下町の「のぞき部屋」で彼女が働いているのを見つける。
男は、女とそこで客として再会するのだ。
愛を復活させないように心を閉ざして、ストイックに再会するのだ。
「のぞき部屋」では客側から女を見ることが出来ても、向こうからは客の姿が見えない。
つまりはマジックミラー。
暗い方から明るい方を見ることはできるが、逆に明るい方から見るとガラスは鏡になっていて暗い方を見ることはできない。
写るのは自分の姿だけ。
向こうからは決して男の姿は見えない。常に一方通行。
声がマイクを通じて伝わるだけだ。
男は、ある友人の話として男と女の話を語る。
女は途中で話しているのが誰だか気がつく。
男は女の部屋の明かりを消させ、自分の顔に明かりを当てる。
女はマジックミラーの向こうに男の姿を見る。
そして逆に、男は女の姿を、見失う・・・。
名人ヴィム・ヴェンダーズはこのシーンだけで「男と女の愛とは何か」を描ききった。
いままで何千という映画が苦労して描いてきた、男女の愛のすれ違い、男と女の距離感、そして「愛のように見えたものの姿」を見事に象徴してみせたのだ。たった一場面で。
マジックミラーには自分の顔が写っている。
ぼんやり見える女の顔に重なって、自分の顔だけがはっきり見える。
なんてすごい場面だろう。
男の、女への「愛」を象徴するかのようだ。
相手への愛のように見えたもの。
それは「自分への愛」なのだ。
女を愛していたように見えて、男は「自分を愛していた」のだ。
自分が可愛かったのだ。
自己愛であり自己憐憫でありエゴなのだ。
愛している自分、愛しすぎている自分を愛しているのだ。
自分が嫉妬する分だけ、相手にも嫉妬して欲しいのだ。
自分が好きな分だけ、相手にも好きを求めるのだ。
自分が苦しんでいる分だけ、相手にも苦しみを与えたいのだ。
相手が傷つくことより、自分が傷つかないことの方に本当は関心があるのだ。
そう、それは自己愛にすぎない。
ボクたちは、わりと気軽に「愛」を口にする。
でも、それは決して相手のためではない。
自分のためなのだ。
そもそもそのレベルの愛とは、すべて自分のためだけのものなのだ。
「パリ、テキサス」