症例報告の意義

採録
「対照との有意差を出すために、やむを得ず大規模にせざるを得なかった。それが大規模試験の本質です」
 これは2002年、金沢で開催されたEBMワークショップでの名郷直樹先生(現・武蔵国分寺公園クリニック院長)の言葉です。初めてお目にかかった名郷先生のこの言葉は、私が持っていた大規模試験信奉を吹き飛ばしてくれました。そして翌年、私が「日本の臨床研究の底上げをする人材育成のため」と大見得を切って、臨床現場を離れて厚生労働省(後にPMDA:医薬品医療機器総合機構)に転じた後も、新薬審査業務の書類の山の中で、名郷先生の名言の行間に隠されたメッセージを学び取ることになったのです。
症例報告こそが原点
 本格的な臨床研究というと、多くの人は大規模試験を思い浮かべます。しかし、厚労省・PMDAでの新薬審査は、何千例ものランダム化比較試験とて、一つ一つの症例の積み重ねに過ぎないことを教えてくれました。
 大規模試験が個々の症例の積み重ねであるならば、臨床研究の原点は目の前の患者の研究、つまり症例報告に他なりません。そう言っているのは何も私だけではありません。多くの先達が症例報告の大切さを説いています1)。New England Journal of Medicine(NEJM)の一番の売り物が、Case Records of the Massachusetts General Hospitalであることは、本ブログの読者の誰しもが認めるところでしょう。しかし、国内ばかりでなく、海外でも非常に多くの医師が、「今時、症例報告を受け取ってくれる雑誌などない」と、素朴な勘違いをしているようです。
大規模試験偏重から症例報告誌の増加へ
 かつて、ページ数もインターネットのサーバー容量も制約が厳しかった時代、NEJMやLancetのような商業誌(!)を筆頭に、多くの雑誌が市場性を考え、広範な読者層に強い訴求力を持つ(と出版社が信じていた)大規模試験の論文を優先して掲載し、症例報告を受け付けなくなったことは事実です。
 ですが時代は変わり、今や紙媒体のみの医学雑誌などありません。サーバーの容量も実質上制約がなくなりました。インターネット上で、かつサーバーの容量が問題にならないならば、広い読者層への訴求力よりも、学問的な価値が重視される可能性が高くなります。
 さらには図書館の書庫に行かなければお目にかかれないような古い文献を除けば、オンラインでの論文検索も十分満足できる水準になりました。このような論文検索エンジンは、大規模試験論文も症例報告も同じ一つの論文として扱い、差別しません。そして今や熱心な臨床医ならば、大規模試験論文では到底カバーできない問題点を解決すべく、症例報告も検索しているのではないでしょうか。
 こうして、もともと臨床研究の原点だった症例報告は、IT技術の発展に伴い、新しい価値を得るようになったのです。症例報告の需要や価値は今後拡大することはあっても、縮小することは決してありません。
 それに伴い、医学系の出版事業も変わり、症例報告誌が雨後の竹の子のように登場しています(表)。新規参入のオンラインジャーナルの多くは、既存の雑誌との差別化のため、数百ドルから千数百ドル程度の投稿料を著者から取る一方、誰もが無料でPDFをダウンロードできるオープンジャーナルにして、引用数を増やし、インパクトファクターを稼いで良質な論文を呼び込むというビジネスモデルを取っているようです。
表 症例報告専門誌の例
Internal Medicine  (http://www.jstage.jst.go.jp/browse/internalmedicine) 
General Medicine  (http://www.jstage.jst.go.jp/browse/general/-char/ja) 
BMJ Case Reports  (http://casereports.bmj.com/) 
Journal of Medical Case Reports (http://www.jmedicalcasereports.com/) 
Journal of Medical Cases (http://www.journalmc.org/index.php/JMC) 
Journal of Radiology Case Reports(http://www.radiologycases.com/index.php/radiologycases) 
International Journal of Case Reports and Images(http://www.ijcasereportsandimages.com/)
 そのような背景で雑誌を創刊する際、大規模試験論文も症例報告も掲載コストは大差ありませんから、多くの医師にとって敷居の低い症例報告に特化した方が有利だと考えても不思議はありません。
症例報告にこだわる意義
 もちろん、いくらインパクトファクターが稼げるといっても、症例報告は教授の椅子や大型研究費を手に入れるには余りにも非効率的な手段です。私もポストや科研費のために症例報告を書いてきたのではありません。
 私が若い頃からこつこつ書いてきた症例報告には、どれにも患者さんと私の両者の思いがこもっています。中でも、私が最も誇りとしているのは、周囲の人々に「臨床を離れた」と言われていた厚労省時代に、単名で執筆してLancetに掲載された筋萎縮性側索硬化症の患者さんについての症例報告です2)。また、つい最近も単名で症例報告を書きました。仙台の筋弛緩剤「事件」における誤診を明らかにしたこの論文3)の目的が、学部長や病院長の椅子ではないのは誰の目にも明らかでしょう。
 臨床を大切にする医師は、症例報告の大切さを身に染みて感じています。幸い、いつでも誰でもどこでも効率よく文献が検索できる時代になりました。あなたの貴重な経験を待っている人が地球上のどこかに必ずいるのです。あなたには、患者さんが教えてくれたことを、国境を越えて共有財産にする使命があるのです。
<参考文献>
1) Vandenbroucke JP. In Defense of case reports and case series. Ann Intern Med 2001;134:330-334
2) Ikeda M. Family bias by proxy. Lancet 2005;365:187
3) Ikeda M. Fulminant form of mitochondrial myopathy, encephalopathy, lactic acidosis, and stroke-like episodes: A diagnostic challenge. J Med Cases 2011;2:87-90.
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なるほど
こうして説明されると症例報告の新しい意義が明確になる