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たとえば有名なところではバスク語なんかとか。系統不明とか聞くと大興奮ですね。どこから来たのか、なんでそこにあるのか、ぜんぜんわかんないんだ けど、とにかくバスク地方にいきなり膠着語しゃべってる人たちがいる。能格構造まで持ってたりする。たまんないですね。
言語が違うっていうことは、思考のフレームが違うっていうことです。上の本にも出てきますけど、コイ族(ブッシュマンっていったほうが通り がいいのか)の言語には「キリンの肉のようにおいしい」とかを一語として表現する形容詞があったりしますし、あと牛とか馬とかを表現するための語彙がやた ら豊富だったりしますよね。同じ牛でも、オスとメスで呼びかたが違うのはもちろん、年齢とか妊娠してるかとか、模様とか、そういうので全部呼びかたが違 う。そして「牛」という存在一般を表現する単語がなかったりする。もう、世界観が違うってことです。
世界観っていうと、俺は(ごく大雑把な定義での)ファンタジー小説が好きなんですけども、たとえば「グイン=サーガ」を読んだときの「ここ ではない世界が確かにある」っていう感覚、あるいは「十二国記」を読んだときの、強度に箱庭的な世界のなかで、人がその世界の構造に束縛されつつ生きてい る姿を見たときの感覚、そういうのが大好きなんです。熱中して読んだあと、本を置いてふと我に帰ると、そこには俺にとっての「リアル」っていうのが広がっ てるわけなんですけども、「ここではない世界」を見たあとに見る「この世界」っていうのは、本を読む前に自分が見ていた世界とは確かに違う。同じなのかも しれないけど、水で洗われたように新鮮に見える。新建材でできたアパートの壁も、小屋のなかで寝ているうさぎも、向かいの家のいつも雨戸が締まっている窓 も、そうしたものすべてを構成する決まりみたいなものにいちいち驚くことができる。「ああそうか、ここもまたひとつの世界でしかなかったんだ」というよう な。
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