江戸城の天守閣はなぜないのかとアメリカの人に聞かれてはっきり分からなかったが 1657年の明暦の大火で失われたのだそうだ ーーー 明暦の大火により、江戸の街の大半が焼き尽くされ、江戸人口50万人のうち10万人以上の生命が奪われました。この未曾有の大災害に陣頭指揮で対処したのが、3代将軍家光の異母弟で、4代将軍家綱の後見役となった会津藩主保科正之でした。保科正之は、被災者の早急な救済と民生安定、長期的展望に基づいた江戸市街の災害復興を最優先の課題と考えました。江戸城天守は、江戸幕府の権威と権力の象徴と考え

江戸城の天守閣はなぜないのかとアメリカの人に聞かれてはっきり分からなかったが1657年の明暦の大火で失われたのだそうだ ーーー明暦の大火により、江戸の街の大半が焼き尽くされ、江戸人口50万人のうち10万人以上の生命が奪わ … Read more 江戸城の天守閣はなぜないのかとアメリカの人に聞かれてはっきり分からなかったが 1657年の明暦の大火で失われたのだそうだ ーーー 明暦の大火により、江戸の街の大半が焼き尽くされ、江戸人口50万人のうち10万人以上の生命が奪われました。この未曾有の大災害に陣頭指揮で対処したのが、3代将軍家光の異母弟で、4代将軍家綱の後見役となった会津藩主保科正之でした。保科正之は、被災者の早急な救済と民生安定、長期的展望に基づいた江戸市街の災害復興を最優先の課題と考えました。江戸城天守は、江戸幕府の権威と権力の象徴と考え