1886年(明治19年)、 時の外務大臣、井上馨は、 欧米列強と肩を並べ、 不平等条約を改正するために、 鹿鳴館をつくり、連日夜会を催し、 西洋式の生活様式を奨励するなどの、 いわゆる欧化政策をとっていました…。 そして、 その総仕上げとでも言うべき、 国会議事堂、裁判所などを含む、 諸官庁建設計画にとりかかります…。 内閣直属の臨時建築局を発足させ、 井上馨自らが、初代総裁に就任します…。 そして、その建築家として、 ドイツで共同の建築事務所を開いていた、 ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマ

"1886年(明治19年)、
時の外務大臣、井上馨は、
欧米列強と肩を並べ、
不平等条約を改正するために、
鹿鳴館をつくり、連日夜会を催し、
西洋式の生活様式を奨励するなどの、
いわゆる欧化政策をとっていました…。
そして、
その総仕上げとでも言うべき、
国会議事堂、裁判所などを含む、
諸官庁建設計画にとりかかります…。
内閣直属の臨時建築局を発足させ、
井上馨自らが、初代総裁に就任します…。
そして、その建築家として、
ドイツで共同の建築事務所を開いていた、
ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの、
エンデ&ベックマンを招聘し、
計画の作成を依頼します…。
この時に出来た計画案は、
パリやウィーンなど、
先進諸国の実例を踏まえた上での、
当時の最先端をいく計画だったと言われています…。
ベックマンの日記には、
「おそらく完成までに100年を要するであろう。
 しかしそれが重要なのだ」、とあります…。
そして、この計画は、
鹿鳴館で、政府高官に披露され、
ベックマンの日記によると、
「計画は承認され」、
天皇の御前での説明もなされたと言います…。
その後、
様々な変更が加えられながらも、
計画は、実際に、進んでいきます…。
しかし、
1887年(明治20年)、
不平等条約の改正交渉が不調となると、
事態は急変します…。
外務大臣、井上馨は辞任に追い込まれ、
計画は大きく揺さぶられていきます…。
ベックマンは日記で、
「われわれのプランに、
 かつての政府があらわした熱狂を」、
「もはや見出せなかった。
 われわれの建物は浪費と見なされ、
 全権を有する外国人による仕上げは反国民的なものとされた」、
と回想しています…。
翌年には、
エンデ&ベックマンの計画は廃棄され、
臨時建築局も、2年後には消滅します…。
ベックマンが100年後を見据えて描いた街路は、
結局、一本も実現することなく、
壮麗なバロック都市東京は、幻と消えました…。
ただ、
不平等条約改正交渉にあたって、
法治国家日本をアピールするために、
特に重要と考えられた、
国会議事堂、裁判所、司法省については、
先に、
日本側と正式に建設契約を結んでいたのだそうです…。
そして、
計画全体が廃棄された時、
すでに、
裁判所と司法省の工事は始まっていました…。
12名のドイツ人技師を招き、
技術習得のために20名の職人を、
ドイツに送ったという、
壮大なバロック様式の建築は、
別の人に引き継がれるかたちで、
完成します…。
裁判所の方は、その後、
最高裁判所新庁舎完成とともに
取り壊されましたが、
司法省の方は、
戦災で大きな被害を受けたものの、
改修され、
創建当時の姿に復元されて、
のこっています…。
法務省旧本館・赤れんが棟…。
幻のバロック都市・東京の断片…。
まさに、夢のかけらです…。"