幻聴について

新しい話題どころか古い話題についての古いタイプの考察である

幻聴と考想化声について

「 思考化声 」 (考想化声)は自分の考えや自生連想が音声感覚で頭に響くもの。
クレペリンはこの「思考化声」が早発性痴呆(分裂病、破瓜・緊張病)で最も頻繁にみられる陽性症状だとしている。
幻聴と異なり、外界からあるいは耳からの声ではなく自分の想念であるという認識がある。

つまり自己所属性があるものは考想化声であり、自己所属性がないものが幻聴である。

とはいうものの、幻聴にしても、宗教的な言及はここではなしにするとして、
自分の内部で発生していることは現代では疑いようがないことなので、
自己所属性があるに決まっている

ただ幻聴については、自己所属性がない、外部からの声であると「錯覚」しているという意味である。

従って、自己所属生の判定については、幻聴であるというならば、それは妄想であると断じて差し支えないことになるのではないか

そもそもひとつの考えとして、
幻聴は、脳内の雑音を意味として感覚することだとするものがある

脳内の雑音が、日本語で、しかもしばしば悪口であることなどあるはずがない
たいていの部分は雑音であると認知するはずである

パレイドリアというが、たとえばトイレに入って壁紙をじっと見ていると、
人の顔が見えてくるというような体験の延長であると考えるとして、
それはどう考えても、壁のシミであり、人間の顔にも見えるという程度の認識になる

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風呂に入ってなにか考えている時、
たぶん文字になって脳内のスクリーンに言葉がゴチックや明朝で浮かぶわけでもないだろう
むしろ声に近いだろう

しかしながら厳密に言うと声でもない
声と同じ程度のスピードで開示される意味であると思う

つまりは意味が思い浮かぶということだ

それを感覚体験と認知するということは、そのように錯覚しているということなのだろう
通常は自分の考えが自分の声になって(あるいは声になる寸前のものになって)自分の頭のなかで生起している

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私は幻聴を聞いているという妄想を抱いている
という状態と
私は幻聴を聞いている
という状態を区別できるだろうか

外部からは無理だろう

内部からも、妄想は定義によって、自覚的には妄想ではないのだから、
幻聴妄想と幻聴は区別ができない

幻視というものは見えているという妄想ではなく見えているのだろう、たとえばゴキブリの大群

幻聴については、厳密に言えば、要素的幻聴については、幻視に対応する幻覚体験だろう
意味そのものである幻聴については、むしろ妄想なのだろうと思う

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時間遅延理論によると、
内部で発生した考え、つまり言葉が、
二つに分かれて、内部シュミレーション回路と外部運動回路の二系統となり、
それが比較照合機能部分に到達するの時間を比較して
内部のほうが外部よりも少しだけ早く到着するのが自由意志を感じられる場合ということになる
外部の方が早ければ、内部は遅れてしまい、その場合は、自由意志を剥奪された状態となり、幻聴であると感じることになる

これは妄想の発生プロセスと同じであるから
幻聴は妄想と同値である

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ただ、単なる金属音が聞こえるとか、その場合は、耳鳴りといってもいいし、要素的幻聴と言ってもいいもので、
区別も難しいが、区別してもあまり意味もないだろう

たとえばシャワーの音の中に電話のベルが聞こえるという場合、
電話のベルはかなり重大な意味を帯びた音なので、
それは音が聞こえているのではなくて意味が聞こえているのである

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つまり、音が聞こえているのか、意味が聞こえているのかという問題である

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現代人は圧倒的に視覚情報に頼っているわけであるが、
目にはまぶたがあり、ときどきまばたきをしたりして、大変不連続的であるといえるし
眠っているときは視覚遮断である

耳は閉じることがないし後ろの音も聞くことができるし
情報量としては視覚よりも少ないのかもしれないが
危機を感じるとか生存に大切な情報は耳に頼る部分が大きいのかもしれない

意味がなぜ声になるのか、文字にならないのかについては、
文化の発展過程として、先に音声言語が成立し、そののちに文字が成立したこととも関係しているだろう

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