南無阿弥陀仏と唱えると浄土に行けるのでこの六字を唱える、と私たちは考えがちである。しかし、そもそも念仏において、その程度の理解だけでは、まだまだ思想的には十分ではないというのだ。「これこれの行為をしたら、こういう結果が待っている」というような思考の仕方は、まだこの世の中をみずからが制御できると思っていることになるからである。他力本願では、ただひたすらに自分が卑小であるという認識からスタートする。小さいからこそ絶対的に他力を恃むのである。そして、自己を極小にしていったその先には、祈る自分というものさえ否定される地点、さらには祈る者と祈られる者という主体と客体の区別が解体する境地があるというのだ。そのことを柳は、「念仏が念仏する」という境地、というような言い方をしている。
「念仏が念仏する」とはちょっと難しい言い方だが、柳の民芸運動になぞらえていえば、名もなき職人が、立派な作品を作ろうなどというこざかしい考え方などもつことなく、無心に轆轤を回し、自分が作品を作っているのだか、それとも誰かが自分に作品を作らせているのかわからないぐらいの境地にまで達して、柳の考える「下手でも下手でなくなる」民芸の美は生まれるということなのだろう。