以前にも何度か繰り返し書いていることだが
言葉というものは体験や思考を自分のために書き留めたり
他人に理解してもらうために書いたりなど
実用的な側面があり
その端的な例は法律とか命令とかそんなものだろうが
その対極的な言語の使命として
言語は何を語り得るか何を語りえないか
そして言語で語りえない世界をなおも語る試みというものが
長い間続けられてきている
それが言語の歴史であると思う
言語の生成を考えてみると
言語が出来る前に思考は明確にはなかったかもしれない
言語が生成されて思考が成立した
認識が成立した
しかしそれは狭い範囲であった
語彙も少なかった
それが次第に語彙を増やし
メタファーを増やし
語り得ることと語り得ないこととの境界を乗り越えて拡張していった
それが同時に人間の認識世界の拡大でもあった
それは現在でも進行していて
言葉は日々新しく作ら入れているし
外来語の正しい用法もあり誤用もあり
それらすべてを含めて言語世界が、非言語世界を侵食するプロセスである
言語が成立してどれだけ年月が経ったのか正確にはわからないが
それでも未だに言語の外側に壮大な世界が広がっているようである
そして今もなお、日々新しく、昨日までは語り得なかったことを
語り得ることに変更しつつある
それにしてもいつまでも語り得ないいことが
言葉の外側にあるのはどうしてなのだろう
一見すると、語り得ることと認識し得ることは一致していて
語り得ないことは認識し得ないことと考えられるのだが
人間はいつも語り得ないことを感じていて
それを言語世界に変換することに挑み続けているのである
なぜいつでも常に語り得ないことが広がっているのだろう
語り得ることについては語り得た
だからこれから以降、言語の新作もないし、メタファーの新作も必要がない、
そう宣言しても悪くないくらいの歴史だろうと思う
それでも停止せずに常に運動を続けている
それが文学の営みである
すでに共有された言葉で、すでに共有された世界を退屈しのぎに描くことは
消費される娯楽ではあるが
語り得ないことを語り得ることに変換するという
私の定義する文学ではない
私は個人的には言語の拡張的な使用法を試みているつもりである