能 清経(きよつね)

平家一門が都落ちした後、都でひっそり暮らしていた平清経の妻のもとへ、九州から、家臣の淡津三郎(あわづのさぶろう)が訪ねて来ます。三郎は、清経が、豊前国柳が浦〔北九州市門司区の海岸、山口県彦島の対岸〕の沖合で入水したという悲報をもってやって来たのです。形見の品に、清経の遺髪を手渡された妻は、再会の約束を果たさなかった夫を恨み、悲嘆にくれます。そして、悲しみが増すからと、遺髪を宇佐八幡宮〔現大分県北部の宇佐市〕に返納してしまいます。
しかし、夫への想いは募り、せめて夢で会えたらと願う妻の夢枕に、清経の霊が鎧姿で現れました。もはや今生では逢うことができないふたり。再会を喜ぶものの、妻は再会の約束を果たさなかった夫を責め、夫は遺髪を返納してしまった妻の薄情を恨み、互いを恨んでは涙します。やがて、清経の霊は、死に至るまでの様子を語りながら見せ、はかなく、苦しみの続く現世よりは極楽往生を願おうと入水したことを示し、さらに死後の修羅道の惨状を現します。そして最後に、念仏によって救われるのでした。

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妻と夫の恨みのすれ違いはあるのだが、
それよりも、最終的には念仏によって救われるということになっているのだが、
実際には妻の夢に現れて語り尽くした時に成仏すると考えてもいいと思う。

再現して語ることが苦難の解消につながるという例。
どうして再現して語ることが慰めになるのだろう。
現代のカウンセリングにつながるスタイルである。

修行僧による弔いによって解決するのではない点がおもしろい

複式夢幻能のスタイルではなく単式能である点、
また、修行の僧の念仏によってではなく、自らの語りによって成仏するという点、
これらが特徴らしい。

妻は最後まで納得した様子はない
納得もできずにとり残されるという風情である

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怨みが解消するということもあるだろうが
この世への執着が消えるということのほうが要素としては大きいのかもしれない

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人生の中で損失が補填されるということはないのだと思う
他の何かで納得できればとてもいい
たいていは納得出来ないと思う
結局は損切りのようなもので
こだわるだけ損が続くので
どこかで割り切ること、忘れることが大切なのだろうと思う
それが処世というものだ