本を読むということは筆者の言葉に乗って時間を楽しむことだ
書かれたものをもとにして
筆者の人格の分析をしたりしているのは
読書の楽しみを損なう
たとえばドストエフスキーについて多少の予備知識があって
実際にカラマーゾフの兄弟を読み
作品世界に浸ればそれでいいのに
メタ読書になってしまい
書かれてあることと、筆者の人格の相関などを考えだすと
ある種の楽しみではあるが
いわゆる世間で言う時間を忘れて読書を楽しむというのともかなり違うものになる
小説家としてのドストエフスキーは偉大すぎるほど偉大である
しかし一人の人間としてみた場合に、やはり限界もあり、欠点もあり、
いろいろな特徴を人並みに備えていて
もちろん感情の振幅は激しく大きいし
思想の深さについてもやはり非常に深いものだと思うが
それでも一方ではかなり困った人でもあるのだ
するとカラマーゾフの兄弟は作品としてそびえ立つというよりも
ドストエフスキーについて証言する材料となり
そこまでくるとあまり面白いとも言えないところがある
ある種の職業を長くしていると
どうしても作品を楽しむというよりは、それを書いた人間の事情とか
書くに至った時代背景とかきっかけとか状況エピソードとかそのようなものを
考えるようになり
そんなことをするようになれば、実際に生身の人間の分析をするほうが
かなり深く肉薄できて意義深いようにも思われる
書かれたものは一級品かも知れないが
所詮は間接証拠に過ぎないし
なにより、翻訳である
ドストエフスキーが特殊な人間であったというのは感慨深く思うものの
それ自体が楽しみとも思わないので
結論を言うと私はもっと楽しく読書がしたいと思う