“  「ふつう」ということに対して、かなり矛盾した感情を持っている。俺は「ふつう」が怖い。ふつうというのは数の暴力だ。なので、この世の片隅でお かしいこと考えながら生きてる人なんかは、その洪水のような流れに対して、抵抗しようにも実に脆弱だ。ならばいっそきれいに流されればいいのだが、そうは いっても「おかしいおかしい言われながら、一から全部自分で組み立ててきたんだ。いまさら変えられるか」みたいなクソみたいな意地がある。「俺が見た世界 はこうなんだよ」と、絶叫でもしたいような気分というのは常にあって、それが俺

 「ふつう」ということに対して、かなり矛盾した感情を持っている。俺は「ふつう」が怖い。ふつうというのは数の暴力だ。なので、この世の片隅でお かしいこと考えながら生きてる人なんかは、その洪水のような流れに対して、抵抗しようにも実に脆弱だ。ならばいっそきれいに流されればいいのだが、そうは いっても「おかしいおかしい言われながら、一から全部自分で組み立ててきたんだ。いまさら変えられるか」みたいなクソみたいな意地がある。「俺が見た世界 はこうなんだよ」と、絶叫でもしたいような気分というのは常にあって、それが俺に文章を書かせる原動力なのかもしれない。
 その一方で、俺は「ふつう」というものを嘲りたい。「おまえたちは、どこに疑問を捨ててきたのだ」と詰問したい。「べき」という言葉が嫌い だ。この世界にあらかじめルールが存在していて、それに盲従するのがまともな人間である、という姿勢が嫌いだ。人間は、だれでも一度は荒野に立ったのでは ないか。徒手空拳で巨大なものを相手に空回りする、悲壮で、かつはばからしく、無駄でさえあるような覚悟を持って立ち尽くしたことがあるのではないか。そ の場所に「べき」はない。
 しかしそう思う俺は「ふつう」というものに対して、尊敬に近い感情も抱いている。この世界を継続させるのは「ふつうの人々」だ。自分と世界 のあいだに巨大な断絶があることを、忘れている、受け入れている、自覚しない、気づかない、ような人々だ。自分が人間の特異点であることを知らない人々 だ。
後半生に入りました