以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
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Bat になったら主観的にはどんな感じがするのかというような有名な論文があるけれども
蝶になりきっている夢というものは
見たことがないし
それに類したような夢も経験がない
夢の中でも私はいつも人間であるような気がする
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私以外の人間である夢
というのも
見たことがないような気もする
映画 マルコビッチの穴 のような 夢も見てみたいものだと思う
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夢を見るその内容はもちろん、形式も
ずいぶんと文化に影響されているのだろうと思う
夢を見るその内容はもちろん、形式も
ずいぶんと文化に影響されているのだろうと思う