けふまでは雪ふる年の空ながら夕暮方はうち霞みつつ 『後鳥羽院御集』正治2年8月御百首。また、『風雅和歌集』巻第8冬歌。 「正治2年人々に百首召されけるついでに年の暮を」といふのが『風雅』の詞書である。  いかにも『風雅』好みのさらりとした詠みぶりだが、それなりに仕掛けはあるし、しかもずいぶん手がこんでゐる。一つは「雪ふる年」が「雪降る」と「古年」にかけてあることで、これは歳末の雪景色に新春の気配を微妙に感じ取らせる工夫である。もう一つは三重の細工で、「夕暮方」が「夕暮」と年の「暮」のほかに「潟

  けふまでは雪ふる年の空ながら夕暮方はうち霞みつつ
『後鳥羽院御集』正治2年8月御百首。また、『風雅和歌集』巻第8冬歌。
「正治2年人々に百首召されけるついでに年の暮を」といふのが『風雅』の詞書である。
 いかにも『風雅』好みのさらりとした詠みぶりだが、それなりに仕掛けはあるし、しかもずいぶん手がこんでゐる。一つは「雪ふる年」が「雪降る」と「古年」にかけてあることで、これは歳末の雪景色に新春の気配を微妙に感じ取らせる工夫である。もう一つは三重の細工で、「夕暮方」が「夕暮」と年の「暮」のほかに「潟」を秘めてゐることである。この潟はどうしても難波潟でなければなるまい。第4句「空ながら」の「ながら」が長柄(ながら)の橋をほのめかしてゐるからだ。
 大晦日の夕方、さきほどまで降つてゐた雪はやんで、晴れわたり、難波潟には霞がたなびいてゐるといふ、いちはやく春を祝ふめでたい歌である。仔細に調べれば『新古今』的な藝を存分にほどこしてあるし、その効果もよくあがつてゐるのだが、表面それを感じさせずおつとりと歌ひあげるのは、後鳥羽院の得意とするところであつた。
 丸谷才一『後鳥羽院 第二版』
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日本の母系家族制が15世紀の頃まで続き、その頃ようやく父系家族制になった。内藤湖南の言葉、「応仁の乱(1467ー77)以前の日本はまるで外国のようだ」を引いて、これは司馬遼太郎も同感の意を表しているという。
たしかに日本人の生活がわれわれの知つてゐる日本らしくなつたのはこの内乱以後のことで、木綿の栽培と普及、袴をつけない着流し、羽織、1日3食、味噌、醤油、砂糖、饅頭、羊羹、豆腐、納豆、それから天井も、部屋に畳を敷き詰めるのも、座敷に床の間と違ひ棚を設けるのも、このころにはじまつた。お茶と生花もこのころ。そして文学史的に大事なのは、衣食住の大変革と母系家族から父系家族への変化とが同時に起こつたこの時期に、勅撰和歌集が終つたといふことです。勅撰和歌集といふのは天皇が命令して編集させた和歌の詞華集で、これは10世紀から15世紀まで21もつづいた。(中略)この勅撰和歌集の系列が息絶えたのが母系家族が終つたときであつたのは意味深長である。これは、和歌が女人の好みに大きくよりかかる詩であつたことをあざやかに示すものでせう。