町田康訳「奇怪な鬼に瘤を除去される」(『宇治拾遺物語』より)
伊藤比呂美/福永武彦/町田康訳『日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集』(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集)収録
これも前の話だが、右の頬に大きな瘤のあるお爺さんがいた。その大きさは大型の蜜柑ほどもあって見た目が非常に気色悪く、がために迫害・差別されて就職もできなかったので、人のいない山中で薪を採り、これを売りさばくことによってかろうじて生計を立てていた。
その日もお爺さんはいつものように山に入って薪を採っていた。いい感じで薪を採って、さあ、そろそろ帰ろうかな。でも、あと、六本くらい採ろうかな、など思ううちに雨が降ってきた。ああ、雨か。視界の悪い雨の山道を歩いて、ひょっ、と滑って谷底に転落とかしたら厭だから、ちょっと小やみになってから帰ろうかな、と暫く待ったのだけれども、風雨はどんどん激しくなっていって、帰るに帰れなくなってしまった。 そこでやむなく山中で夜を明かすことにして、広場のようなところに面した大木の洞に這い込んで膝を抱えた。 夜の山中は真の闇で、人間の気配はまるでなく、魑魅魍魎の気配に満ちて恐ろしくて恐ろしくてならなかったが、どうすることもできなかった。 眠ることもできないまま膝を抱えていると、遠くから大勢の人の話し声が聞こえてきた。 やったー、人だ。捜索隊が派遣されたのだ。よかったー。「おーい、僕はここだよー」と叫ぼうとして、お爺さんは寸前で思いとどまった。 この暗闇から、この不気味な顔を、ぬっ、と突きだしたら、それこそ変化のものと思われて撲殺されるかも知れない。なので近くまで来たら、小声で自分は奇妙な顔ではあるが人間である、と説明しながらそっと出て行こう、と思ったのである。 しかし、それは賭けでもあった。なぜなら、捜索隊がお爺さんのいる方に近づいてくるとは限らず、明後日の方向へ行ってしまう可能性もないとはいえなかったから。でもまあ、そうなったら、つまり声が遠ざかっていくようであれば、そのときは声を限りに叫ぼう、そう思ってお爺さんが辛抱強くしゃがんでいると、幸いなことに声はずんずん近づいてきて、ああよかった。誰が来てくれたのだろう、見知った人であればよいが、と木の洞から少し顔を出して覗いて、お爺さんは驚愕した。 お爺さんのいる木の洞に向かって歩いてくるのは捜索隊ではまったくなく、鬼の集まりであったからである。 その姿形たるやはっきり言ってムチャクチャであった。まず、皮膚の色がカラフルで、真っ赤な奴がいるかと思ったら、真っ青な奴もおり、どすピンクの奴も全身ゴールドというど派手な奴もいた。赤い奴はブルーを着て、黒い奴はゴールドの褌を締めるなどしていた。顔の造作も普通ではなく、角は大体の奴にあったが、口がない奴や、目がひとつしかない奴がいた。かと思うと目が二十四もあって、おまえは二十四の瞳か、みたいな奴もおり、また、目も口もないのに鼻ばかり三十もついている奴もいて、その異様さ加減は人間の想像を遥かに超えていた。 そんな奴が百人ほど、昼間のように明るく松明を灯し、あろうことか、お爺さんの隠れている木の洞の前に座って、お爺さんはもはやパニック状態であった。 どうやら鬼はそこで本格的に腰を据えて宴会をするらしかった。いつしか雨はやんでいた。 リーダー、って感じの鬼が正面の席に座っていた。そのリーダー鬼から見て右と左に一列ずつ、多数の、あり得ないルックスの鬼が座っていた。 見た目はそのように異様なのだけれども、おもしろいことに、盃を飛ばし、「ままままま」「おっとっとっ」「お流れ頂戴」なんてやっているのは人間の宴会と少しも変わらなかった。 暫くして酔っ払ったリーダーが、「そろそろ、踊りとか見たいかも」と言うと、末席から、不気味さのなかにどこか剽軽な要素を併せ持つ若い鬼が、中央に進み出て、四角い盆を扇のように振り回しながら、ホ、ホ、ホホラノホイ、とかなんとか、ポップでフリーな即興の歌詞を歌いながら、珍妙な踊りを踊った。 リーダーは杯を左手に持ち、ゲラゲラ笑っており、その様子も人間そっくりで、酔っ払って油断しきった社長のようであった。 それをきっかけに大踊り大会が始まってしまって、下座から順に鬼が立って、アホーな踊りを次々と踊った。軽快に舞う者もあれば、重厚に舞う者もあった。非常に巧みに踊る鬼もいたが、拙劣な踊りしか踊れない鈍くさい鬼もいた。全員が爆笑し、全員が泥酔していた。 その一部始終を木の洞から見ていたお爺さんは思った。 こいつら。馬鹿なのだろうか? そのうち、芸も趣向も出尽くして、同じような踊りが続き、微妙に白い空気が流れ始めた頃、さすがに鬼の上に立つだけのことはある、いち早く、その気配を察したリーダーが言った。「最高。今日、最高。でも、オレ的にはちょっと違う感じの踊りも見たいかな」 リーダーがそう言うのを聞いたとき、お爺さんのなかでなにかが弾けた。 お爺さんは心の底から思った。 踊りたい。 踊って踊って踊りまくりたい。そう。私はこれまでの生涯で一度も踊ったことがなかった。精神的にも肉体的にも。こんな瘤のある俺が踊るのを世間が許すわけがない、と思うまでもなく思っていて、自分のなかにある踊りを封印してきたのだ。けれども、もう自分に嘘をつくのは、自分の気持ちを誤魔化すのは嫌だ。私はずっと踊りたかったのだ。踊りたくて踊りたくてたまらなかったのだ。いまそれがやっとわかったんだ! そこでお爺さんは飛んで出て踊っただろうか。もちろんそんなことはできるわけがなかった。というのは、そらそうだ、そこにいるのはとてもこの世のものとは思えぬ異類異形。そいつらが宴会をやっているところへ人間が闖入するなどしたら瞬殺に決まっている。 お爺さんは歯を食いしばって耐えた。ああ、踊りたい。でも殺されたくない。 葛藤するお爺さんの耳に、カンカンカカーンカンカンカカカーン、と鬼が調子よく奏でるパーカッションが心地よく響いていた。 ああ、やめてくれ。自然に身体が動いてしまう。 一瞬、そう、思ったが、もう駄目だった。気がつくとお爺さんは木の洞から踊りながら飛び出していた。 悪霊に取り憑かれたか、なんらかの神が憑依したとしか考えられない所業だった。そのときお爺さんは思っていた。 いま踊って死ぬなら、死んでもよい、と。あのとき我慢しないで踊ればよかった、と後悔したくない、と。 楽しく飲んでいたところに突然、ぼろい帽子を被り、腰に斧を差した身元不明の老人が現れたので、その場に緊張が走った。「なんだ、てめぇ」と、何人かの鬼が立ち上がった。 けれども、踊ること以外、なにも考えられない状態のお爺さんは気にせず踊った。踊りまくった。うんと身体を縮めたかと思うと、気合いとともにビヨヨンと伸びたり、身体を海老のように曲げたり、ときに娘のように腰をくねらせ、指先の表現にも細心の注意を払い、ときにロックスターのように律動的な文言で観客を煽りながらステージ狭しと駆け回ったり、と、伸縮自在、緩急自在、技、神に入って、お爺さん、一世一代の名演であった。 その、あまりのおもしろさ、味わい深さに、初めのうちは呆気にとられていた鬼であったが、次第にお爺さんの没我入神の芸に引き込まれ、踊りまくったお爺さんがフィニッシュのポーズを決めて一礼したとき、全員が立ち上がって手を拍ち、ブラボウを叫んだ。 ことにリーダーの鬼が気に入った様子で、鬼は進み出てお爺さんと頭のうえで手を打ち合わせ、その小さな躯を抱きしめてから、お爺さんの手を取り、その瞳を見つめて言った。「長いこと踊り見てきたけど、こんな、いい踊り初めてだよ。次にやるときも絶対、来てよね」 踊りの興奮がまだ残っているお爺さんは息を弾ませつつ言った。「はい。絶対、また呼んでください。みんなが喜んでくれたのはすごく嬉しいんですけど、自分的にはまだ納得できてない演技がいくつかあって、今回、急だったんでアレですけど、気に入ってもらって、また、呼んでもらえるんだったら、次こそ完璧な演技をしたいんで」「さすがだよね。あれだけの踊りやって、まだ、反省するとこあるっつうんだから。絶対、来てね」 そう言ってリーダーがまたお爺さんを抱きしめたとき、序列三位の幹部級の鬼が言った。「リーダー、口は重宝と言いますよ。いまはそう言ってるけれども来ないかも知んねぇでしょ。絶対来るようにしておく必要なくなくないですか」「あ、そっか。だよね。オレは来てほしいけど、この人には来る理由はないもんね。うーん、と、うーと、どうすっかなあ。あ、じゃあさあ、出演料払う、ってのはどう? 例えば、おめぇ、鼻、三十あんじゃん? それを三つか四つ、この人につけてあげるとか」「嫌ですよ。それに、それだったら、もうこれ以上鼻は要らない、と思ったら来ないじゃないですか。だからそうじゃなくて、逆にこの人の大事なものをこっちで預かって、来ないと返さないよ、ってことにするといいんですよ」「なるほどね。でも、それって極悪じゃね?」「踊り見たくないんですか」「見たい。絶対、見たい」「じゃあ、極悪でもしょうがないじゃないですか」「だね。じゃあ、ええっと、みんな考えて。なにを預かればいいと思う?」 リーダー鬼がそう言って、みなで考え、斧、衣服、財布、煙草入れ、燧石、帽子、各種カード類など、様々に意見が出たが、どれも、本当に大事なものか、というと、そうでもなさそうなものばかりで、決め手を欠き、一同が考えあぐねているとき、リーダーが突然に、「瘤だよ」と言った。「なんすか」「だからほら、あの人の頬にある瘤だよ。おまえだって、その鼻、一個でも取られたらやっぱ嫌でしょ」「嫌ですね」「オレだって、このおでこの陰茎、六本あるけど取られたらやっぱ嫌だもん。じゃあ、そうね、やっぱ瘤いこう、瘤」 リーダーがそう言い、何人かの鬼が瘤を取ろうとして近づいてきたとき、お爺さんは内心で、やったー、と思っていた。永年、自分を苦しめてきた瘤を除去してもらえる。こんな嬉しいことはない、と思ったのである。 しかし、鬼の剣呑な相談事を聞くうちに踊りの興奮から覚め、日頃の用心深さを取り戻したお爺さんは、ここで嬉しそうにしたらまずい、と思った。なぜなら、自分が瘤を大事と思っていないことを、どうやら身体のパーツを自在に取り外しできるらしい鬼に知られたら、別の、本当に取られたら困る、目や鼻や口を取られるおそれがある、と思ったからである。そこでお爺さんは、心の底から困る、という体で言った。「あー、すんません。この瘤だけは困るんです。そんなことしなくても私は来ますよ。だって踊りたいんですもん。でも、どうしても信用できない、って言うんだったら、目か鼻にしていただけないでしょうか。この瘤は私が若い頃からずっと大事にしてきた瘤なんです。それを、踊りが見たいから取る、って、それはあんまり、っていうか、はっきり言ってムチャクチャな論法じゃないですか」 お爺さんが縷々、訴えるのを聞いて嬉しそうにリーダーが言った。「ここまで言うんだからマジじゃね? やっぱ、瘤、いこうよ、瘤」 何人かの若い鬼がお爺さんに駆け寄り、後ろに立った者が躯を押さえつけ、前に立った者が手を伸ばして瘤をねじ切って取った。 お爺さんは覚悟していたが不思議と痛みがなかった。「じゃあ、絶対、来てね。連絡するから」 言い残し鬼たちは帰っていった。チュンチュラ、と鳥が鳴いた。気がつけば暁方であった。 夢のような出来事だった。もしかしてマジで夢? そう思ったお爺さんは右の頬に手を当てた。そこに瘤はなく、拭い去ったようにツルツルであった。このことを誰よりも早く妻に知らせたい、と思ったお爺さんは伐採した薪を木の洞に残したまま中腹の家に飛んで帰った。 お爺さんの顔を見て驚愕した妻は、いったいなにがあったのです? と問い糾した。お爺さんは自分が体験した不思議な出来事の一部始終を話した。妻はこれを聞いて、「驚くべきことですね」とだけ言った。私はあなたの瘤をこそ愛していました。と言いたい気持ちを押しとどめて。
そんなことでお爺さんの瘤がなくなった。それを見て、いいなー、と思った人がいた。 お爺さんの家の隣に住むお爺さんである。嘘のような偶然なのだけれども、事実は小説よりも奇なり、この隣に住むお爺さんの左の頬にはお爺さんの瘤とまったく同様の瘤があった。そしてお爺さんと同じように瘤があることによって迫害・差別されていた。 なので、ある日以降、お爺さんの頬より瘤が拭い去ったようになくなり、すっかり快活な人間になって就職活動などしているのを見て、自分も同じくなくしたい、と思ったのである。そこで何日か後に隣のお爺さんはお爺さんの家に行った。「すんません」「はいはい、ただいま。ああ、どうもどうもどうも。どうしたんですか。改まって」「実はお伺いしたいことがござりまして罷り越したようなこってございましてございます」「へりくだり過ぎてなにを言うてるかわからないんですけど、どうしたんですか」「いや、あのすみません。それでは単刀直入に申し上げます。実はそのお、ま、このお、瘤のことなんですけどね、どこで手術したんですか」「はあ?」「いや、だから、とぼけんでもいいじゃないですか。教えてくださいよ。僕も瘤を取りたいんですよ」「あ、なるほどこれですか。これはお医者さんに取ってもらったんじゃないんです。実は……」 こうこうこうこうこういうことがあって……、とお爺さんは自らの奇怪な体験を隣のお爺さんに話した。普通の人間だったら、そんな恐ろしい体験は絶対にしたくない、と思うのだけれども、隣のお爺さんは瘤を取りたかった。取りたくて取りたくて仕方なかった。なので、自分も同じように奇怪な鬼と遭遇し、同じように踊り、同じように瘤を取ってもらいたい、と願い、事の次第・子細をお爺さんから聞き出した。 そして夕方になるのを待ち、お爺さんの言っていた洞のある大木が生えている広場に出掛けていき、木の洞に這い込んで鬼の来るのを待った。したところ。 暫くすると本当に鬼が来て、隣のお爺さんは座ったまま小便を垂れ流した。話に聞いていた以上に鬼どもの姿形が奇怪で恐ろしげであったからである。 息を潜めて眺めていると鬼たちは、これも話に聞いていたように宴会を始めた。早くも踊り始める者もあった。けれどもリーダーはそわそわして、あたりを見回し、「あれ? お爺さんどこ? お爺さん、来てないの?」とお爺さんばかり気にしている。 隣のお爺さんは、とても出て行けるものではない。こんなところに出て行くなんて死にに行くようなものだ、と、そう思って木の洞のなかで手で頭を隠し、躯を屈めて隠れていた。そのとき、お爺さんの左の肘に触れるものがあった。 瘤であった。お爺さんは、この瘤がある限り、俺は一生、暗闇で震えているしかない。膝を曲げ、腰を曲げ、両の手で頭を覆い隠し、泥と小便にまみれて震えているしかない。おまえはそれでいいのか? 本当にいいのか? あのお爺さんのように快活な人間になりたくないのか? なろうとは思わないのか? そう思ったお爺さんは洞から這いだし、ゆっくりと立ち上がった。ゆっくりと立ち上がって鬼たちの方に向かってよろよろ歩いて行った。「あ、お爺さんだ。リーダー、お爺さんが来ました」「マジい? あ、ほんとだ。ほんとに来てくれたんだね。ありがとう。じゃあ、とりあえず踊ってよ。あれからずっと見たいと思ってたんだよ」 言われてお爺さんは真摯に踊った。けれどもそれは、先般、踊ったお爺さんの踊りとは比べようもなく拙劣な踊りであった。 というのは当たり前の話で、前のお爺さんは、踊りたい、と心の底から思って踊った。けれどもこのお爺さんは踊りは二の次、三の次で、瘤を取りたい、と思って踊っており、そうしたものは観客にすぐに伝わるものである。けれども、自分は真面目にやっている、真剣にやっている、と信じている隣のお爺さんにはそれがわからず、盛り上がりに欠けた一本調子の、おもしろくもなんともない独善的な踊りを延々と踊り続けた。 そして、前のお爺さんと同じレベルの芸を期待していた鬼たちは白けきっていた。特にリーダーの落胆ぶりは甚だしく、「ぜんぜん、駄目じゃん」と言って首を揉んだり、顔をしかめて頭をこするなどして、まったく踊りを見なかった。 もちろん、別人なのだから能力が異なるのは当たり前なのだけれども鬼から見れば人間のお爺さんは、みな同じ人に見えた。 にもかかわらず、自分の瘤のことばかり考えていて、そうした観客の発する気配を察することのできないお爺さんは踊りをやめず、痺れを切らしたリーダーはついに、もう、いいよ、と言った。「もう、いいよ。見てらんない。なんか、小便臭いし。瘤、返して帰ってもらってよ」「了解」 やはりお爺さんの踊りに辟易していた、末席にいた鬼が袋からお爺さんの瘤を取り出し、踊るお爺さんめがけて投げた。 ぶん。音がして瘤が飛んだ。 なんらの情趣も情感も感じられない、腰痛持ちが田植えをしているような所作から、ウントコウントコ、ドッコイショ、と、躯を伸ばし、両の手を天に向けてヒラヒラさせ、爪先だって回転しようとしていたお爺さんは、突然、打撃されたような衝撃を右頬に感じ、その場に転倒した。 ペッペッペッ。土を吐いて立ち上がったお爺さんのその左右の頬に醜い瘤が付着していた。あれほど嫌だった、これまでさんざんお爺さんを苦しめてきた瘤が二倍になってしまったのである。その顔は、「だからやめとけ、つったじゃん」と言ってないけれども言いたくなるような滑稽で無様な顔であった。 あいつにできたのだから自分もできるはずと信じ込んで行動すると、やはり手ひどい失敗をするらしい。そのあたりに気をつけて生きたいものだ。 (第三話)
2017-04-22 03:22