【8】最悪のシナリオ等
最終回です。
駄文に関わらずお付き合い頂いた皆様、本当にありがとうございました。
恣意的な事故調報告や、関係者の自己弁護的な自筆本に違和感を覚え、当時34歳だった自分の弱虫さを含め、記憶を淡々と書くスタイルにしました。記憶ゆえ、不正確な部分もあるかもしれませんが、この記憶全体がもつ多少の公共性に免じて、お許し頂ければ幸いです。
今回は、今までの時系列で記す形から、記憶していることをオムニバスに記す形になっています。もともと私の備忘録的な連載ですので、本当に些細な事も記載します。呑気な書き込みがあるかもしれませんが趣旨をご理解ください。
<SPEEDI スピーディ>
その存在を、私が最初に知ったのはTwitterだった。福山副長官も同様だったはず。
「Twitterでスピーディってのがあるって情報、多いですよね?」そんな話を福山副長官とした。「班目委員長に聞いてみないとな。」
総理は福島社民党党首から教えてもらったと言っていた。「スピーディという放射能拡散予想装置?があるらしい」そんな朧げな情報。直ちに班目原子力安全委員長に聞く。「スピーディってのがあるらしいが。」
すると、班目委員長からは、「ありますよ、でも今は役にはたちません。実際にどれぐらい放射性物質が放出量が解らなければ、拡散予想が出来ないんです。だから、いまは使えません。いま原発からどれぐらい放出されたわかりませんもん。」と、一笑にふされた。何度も聞いた。私からも、総理からも、福山副長官からも。全て同じ答えだったらしい。
日時は、自衛隊ヘリによる放水後だったから、早くても3月17日以降。既に原発が3度も爆発した遥か後のこと。実際は事故当初から、スピーディを所有している文科省の関係団体が使用していたと、後の報道で知る。一号機の爆発の時、官邸はスピーディ情報を隠していたと言われるが、実態は以上の通り。隠す情報すらなかった。なにより、この手の情報が、避難の実務的な陣頭指揮をとる伊藤危機管理監にすら入っていなかった。政治が隠した、のでもなく、役所機構のトップが隠したのでもなく、そもそも官邸に情報が入らなかった。
住民の避難に関して、政治側は「避難させるかどうか」の大局を判断し、行政側(主に警察、危機管理センター)は「どのように、どこに避難させるか」の実務的な判断する。その行政側のトップが危機管理監なのだが、伊藤危機管理監にも情報が入っていなかった。文科省で止まっていたのだろう。そもそも、文科省が所管している事自体、おかしい。官邸にあげるべき情報か否かの判断すら出来なかったのだろうか。これも縦割り行政、縄張り行政の悪弊。
<最悪のシナリオ>
「最悪のシナリオ」と呼ばれたシミュレーションがあった。総理から近藤原子力委員会委員長に作成を依頼したもの。総理への報告時に同席。確か3月25日前後。
福島原発の全てがメルトダウンし、人間が近づけない状態になり、その放射能汚染が他の原発の地域までに及び、連鎖的に事故が起こる等々、全てが最悪の方向に進んだ場合の、最大の被害の想定。まさしく最悪のシナリオ。
極々短時間での説明。パワポ資料で数枚だった。総理、枝野長官、福山副長官、細野補佐官ぐらいのメンバーで、近藤委員長の説明を受けた。
記憶に残っているのは「避難が必要となる地域」福島原発から半径250kmは避難が必要となるシミュレーションだった。避難するということは、このケースにおいて戻る事を想定していない。移住を必要とする地域、と言っていい。資料には福島原発から半径250kmの同心円。我がふるさと、秋田県は避難地域に含まれていた。「あぁ、秋田が無くなるのか」事実が飲み込めなかった。そして東京も避難地域だった。横浜まで含まれていた。「首都移転」が必要になる、と真っ先に思った。そして、誰も口には出さなかったが、皇居が避難地域に含まれる事の重大さに打ちのめされていた。
それ以外にも、東日本に住む方全員の移動。西日本の土地は高騰し、食料も不足、失業者大量発生etc。考えるのもおぞましい状況があった。資料は細野補佐官の指導のもと、回収された。
<放水機器 キリン>
注水が充分ではない福島原発燃料プールに対し、継続的に注水する仕組みを探っていた。水が無くなったら、核燃料が外気に剥き出しになるからだ。燃料プールは原子炉の上部に設置されているのだが、通常の注水ルートは爆発で破壊されているので、原子炉の頭上から水を注ぐ必要がある。自衛隊のヘリで注水を試みたいが、一過性で継続的に実行出来ない。相当難儀している。何か方法はないものか。。。
そう悩んでいた時に、公明党の議員からの提案があった。高層ビル用のコンクリートポンプ車を使ったらどうか、というもの。ドイツ製で、日本に存在しない機械であったが、偶然、外国に輸出する途中、横須賀の港にあるとのこと。急いで現物を確認し、政府で買い取る段取りが進む。福山副長官の部屋には模型。首が長いので「キリン」と名付けた。
その後、キリンは目を見張る程の成果をあげた。今まで地上から放水して、はるか頭上にある燃料プールに注水していたが、キリンなら、プール目の前までアームが伸びる。あれだけ苦労したプールへの注水が、一気に進む。キリンに救われた。本当に、キリンがあの危機を救った。
<与謝野大臣>
3月20日過ぎ、与謝野大臣に呼ばれた。「総理に助言があるから、ちょっと寺田君来てくれ」と。官邸にこもりっきりだったので、久しぶりの外出だった記憶がある。
内閣府四号館の与謝野大臣室に行くと、秘書官の嶋田さんと大臣が部屋で執務をされていた。与謝野大臣から「どうだい?様子は?」と聞かれる。私からは「最悪です。本能的に、原発なんて人間の扱えるものじゃないと思いました」。与謝野大臣「そうか、あの福島の原発、当時私が絡んでたんだよね。。。」
すっかり忘れていた。嶋田秘書官が心配そうな顔で私の発言を聞いていた意味がようやく解る。与謝野大臣から一冊の本を預かる。後藤新平について書かれた本。関東大震災の復興に携わった偉人について書かれた本。
「これに習い、復興院を創るよう総理にお伝えください」与謝野大臣からの伝言を預かり、官邸に戻る。総理に伝えたところ非常に感謝していた。
<20ミリシーベルト問題>
3月の月末あたり。小佐古教授が、党所属議員の推挙で内閣府参与になった。私は初対面。総理も初対面。大衆被爆の専門ということで、助言を受ける事に。
その小佐古教授はテレビで、一般公衆の線量限度を「一ミリシーベルト以下にすべき」と泣きながら会見をした人。当時、国は20ミリシーベルトを基準と決定していた。
ここでの記憶を数点。
まず、小佐古教授。官邸で避難地域の拡大が議論されていた時に、「そんなに拡大しなくていい」と一番反対していたのが小佐古教授だった。班目委員長らが拡大必要という路線で議論し、総理に報告に来た時に、参与として小佐古教授が同席していた。まさしく、参与としてセカンドオピニオンを述べる為に。
班目委員長が避難地域拡大の必要性を訴えた時に、小佐古教授は猛烈に、そして感情的に反対していた。(私は別件で隣室の秘書官室で仕事をしていたところ、会議に同席していた秘書官から「寺田補佐官、何とかしてください、、、」と急遽呼ばれて途中から参加した)
「拡大は必要ない!そんなメンバーで短時間で決めたのなら尚更だ!」私が入室した時に、小佐古教授は既に感情的だった。誤解を恐れずに言うと、学術的な意見相違以外に、小佐古教授の班目委員長に対する個人的な嫌悪感が混じっているように見えた。学会にも主流、非主流があるのかどうか解らないが、原子力安全委員長という、政府のトップアドバイザーとなっている班目委員長への複雑な想いがあるように見えてならなかった。
班目委員長も引き下がらず、総理を前に学者2人が大げんか。官房長官らも呆れる程の口喧嘩だった。総理としては、いくら参与の意見とはいえ、正式な助言機関の長たる班目委員長の意見を尊重したい。しかし、対立は収まらない。そのとき、私が呼ばれて執務室に入った。
私から「ここではおやめください。一旦お二人とも別室に移って頂いて直接協議して下さい。申し訳ありませんが、福山副長官、仕切りお願いしても宜しいでしょうか」と整理。
大げんかは終了。その小佐古教授、これほど避難地域の拡大に反対していた人が、数日後、テレビの前で国の20ミリシーベルト基準を批判し涙を流していた。何がなんだかわからなかった。この20ミリシーベルト問題、一度福山副長官に聞いた。何とか出来ないか、と。すると「いやぁ、したいんだけど、知事が相当嫌がってるんだ。人口が減る、福島が無くなるからと言って。地元の了解なしに政府が決めても実効性が乏しいんだ」。
<補佐官の退任>
3月25日、総理執務室で主要メンバー打ち合わせ。
統合本部に詰めている細野補佐官から、「今後の余震に備え、ボロボロの建屋の修復、強化が必要。その担当として馬淵さん(党広報委員長)を使いたい。だが、岡田幹事長が『そのような業務をするなら政府の役職が必要』と難色を示している。困った」と総理に相談。やおら総理が「議員要覧もってきて」と秘書官に頼む。
総理が副大臣・政務官一覧を眺めながら「馬淵君は以前副大臣やってたから、副大臣で処遇しないとな。どの役職ならいいのかな」と、馬淵さんの為に解任する副大臣を選び始めた。「国交副大臣か、内閣府でしょうね」。そんな話が出る。その議論を聞いて心配になる。(全副大臣が一丸となって震災対応に取り組んでいる時に、いきなり解任される副大臣がいたら、全体の士気が下がるかもしれないな)
そこで総理に「いきなり解任されるのはご本人にとっても、役所にとっても不具合が大きいと思います。僭越ですが、私の補佐官ポストが必要であれば、退きますのでご遠慮なくご指示ください」と述べた。しばし議論が続く。
仙谷副長官「それがいいかもな」。福山副長官「いやいや、それは良くない。なんなら寺田君に建屋修復をやってもらえばいい」。仙谷副長官「年齢やら、過去の経験やら考えたら馬淵君だよ」。総理「寺田君に官邸を今離れられるのはダメだ」。
沈黙。
寺田「幸いなことに秘書官の方々とは肩書きを超えて仕事をさせて貰っています。お許しを頂ければ退任後もしばらくは官邸に通って業務致しますので、大きな変化はないと思います」。総理「ちょっと考えさせてくれ」打ち合わせ散会。隣の秘書官室自席に戻る。しばらく待つと「総理がお呼びです」と声がかかる。総理「すまんが、宜しく頼む」。
良かったような、寂しいような気分。かっこ付け過ぎたか、と少し後悔。いずれ補佐官の退任が決まった。直ちに秘書官の皆さんに報告。「突然ですが、馬淵さんと交代で補佐官を退任します」。
突然の決定だったので秘書官全員が驚いていた。「冗談を(笑)」と最初は信じてくれなかったが、事情を詳細に説明したら信じてくれた。「絶対毎日来て下さい」と言ってくれた。総理の指示で、私の机はそのまま。秘書官に続き、秘書官付きの各人、長官室、副長官室、補佐官室、広報官室、そして階下の記者クラブ、番記者のみんなに報告と挨拶。翌日、退任。
その日から、行政上不適当だが、一議員の身分で官邸に幾度も足を運び、総理秘書官室に待機する時期が続いた。(この事は、今でも不適当と自覚している。震災緊急時の特別な行為だった)
<自衛隊員からの情報、 書籍化>
官邸には色々な情報が届く。
その中に、自衛隊の須藤東北方面総監部政策補佐官のレポートがあった。防衛省出身の秘書官が機転をきかせ、他の秘書官と私に配ってくれていた。内容は、須藤政策補佐官が被災地を実際に回りながら気がついたことのメモ。非常に具体的で、かつ、人間的な喜怒哀楽が織り込まれ、情報源として重宝するのみならず、読み物として興味深かった。「これ、貴重な話ばかりだから、本にしたほうがいいよ」と、秘書官に言っていたら本当に本になった。
以下、参考。http://www.amazon.co.jp/自衛隊救援活動日誌-東北地方太平洋地震の現場…/…/459406437X
<浜岡原発の停止>
最悪の事態が落ち着いてきた3月下旬ぐらいから、「他の原発は大丈夫か?」との疑問が、政府内や報道でも語られるようになってきた。その中で象徴的な原発が「浜岡原発」だった。立地している場所への疑念に加え、福島原発と同じように津波の直撃を受けかねない原発だからだ。総理には「いずれ浜岡をはじめ、他の原発の取り扱いが議論になりますから準備されたほうが良いと思います。個人的には浜岡のような危険度の高い原発らを停止させるべきと思います」と進言していた。
その後、私は補佐官を退任。以後も官邸に足を運び、広報的な分野等では変わらず働いていたが、政府の人間ではなくなった以上、深刻な打ち合わせには参加を控えていた。
その時は突然だった。5月のGWの狭間。
たまたま官邸に足を運び、いつもの秘書官室自席で打ち合わせをしていたら、秘書官から「後で浜岡原発の停止に関わる打ち合わせがあるようです。今日、いきなり浜岡原発停止を発表するみたいなんです。補佐官(退任してもそう呼ばれていた)も出席したほうがいいかもしれません。」
総理秘書官も当日知ったようだった。もちろん、経産出身の秘書官も。
丁度、福山副長官が秘書官室にきた。そこで私から「停止の結論は賛成ですが、いきなり今日発表ってのはあまりにも準備不足じゃないですか???」福山副長官「そうか、そう思うかぁ。だよなぁ」と、今の方向性に確信は持っていない様子。
その後、続々と関係者が総理執務室に集まりだした。総理執務室には、官邸側は総理、枝野長官、仙谷、福山、瀧野副長官、細野補佐官、総理秘書官全員、経産省から海江田経産大臣、松永事務次官、柳瀬総務課長(現安倍総理秘書官)、そして、私。
私は既に補佐官ではなくなっているので、隅の椅子に座る。話の切り出しは誰だったか覚えていない。
総理の最終決済の会議なので、既に長官までは了解を取っていた様子。長官、海江田大臣が主導する形で「浜岡原発の停止を要請、本日発表」という流れが出来ていた。長官は「まさか運転中のもの含め全て停止とまでは誰も思っていないだろう」と、若干誇らしげであった。総理も元々浜岡原発の停止を考えていたようなので、賛同する方向。大体の話が煮詰まってきた頃に、福山副長官がおもむろに「どう思う?寺田君」とふってきた。補佐官退任後ゆえ発言を控えていたが、折角の機会なので想いを話した。
「結論として浜岡原発を停止させるのは賛成しますが、いきなり今日、浜岡だけ要請するのは時期尚早だと思います。国民と問題意識を共有し、浜岡以外の原発も含めた上で基準やルールを作って停止させるべきだと思います。唐突に過ぎて、単発で終わるのは絶対に良くないと思います」。
いきなりの異論で、かなり場の空気が悪くなった。しかし、そこに仙谷副長官が同調。
「賛成。半年ぐらいかけて議論するべきだ。もっと多面的な要因もある」。私から再度、「半年とまでは私は言いませんが、国民の理解を高めてからのほうがいいと思います。その為に新聞社にリークしてでも、政府が他の原発の停止を考えていることを国民に知ってもらって、そこで基準つくって浜岡を停止させるべきです」と述べた。
すると枝野長官から雷のように「そんな呑気にやってたら、浜岡停止自体が潰されるんだよ!!!」と怒鳴られた。
すかさず、経産省の柳瀬総務課長が枝野長官を擁護する発言をした。その発言内容は覚えていないが、この手のものを極力避けていた経産省が、浜岡停止に積極的なことに驚いた。柳瀬課長が、上司である松永次官と私をチョロチョロ見ながら話しているのも、気味が悪い。邪推すれば、浜岡を生け贄にして、他の原発の停止を避けようとしているのか。何度か柳瀬課長が発言を繰り返し、元の既定路線に戻る。補佐官だったら粘ったが、いまや私は会議に参加している事自体が異常な立場だったので控えた。
「本日発表、会見は海江田大臣ではなく総理」と決まる。
海江田大臣が会見する予定だったが、会議の中で「重大なことゆえ総理がすべき」となった。経産省事務方は、海江田大臣に会見をさせたがっていたようだが。総理本人は、会見を自分がすることは余り乗り気じゃない様子。
「発言内容整えておいて」とだけ発言。
会議が散会。執務室から出ると、秘書官の一人が私の肩を叩いてくれた。
「補佐官の言っていることは間違ってません」。
その直後、総理会見で浜岡原発の停止要請が発表された。原発事故とは直接関係ない事をこれまた備忘録を兼ねて書き記します。
<菅総理への提言>
2011年の6月を過ぎて総理にお願いしていたこと。それは「原発を争点に解散総選挙をしてほしい」ということ。
それまでの過酷な事故対応で、「原発とは縁を切るべき」と痛感していた。日本は原発に頼らないエネルギー供給を達成すべきだ、と。実現するには国民の意思表示が絶対必要であり、それを決めるのは選挙が一番良いと考えた。国民投票じゃなく、選挙がいい。各候補者の意思表示をしっかりさせたほうがいい。
だが、解散のお願いと共に、総理に失礼極まるお願いもした。解散と共に引退をしてほしい、と。失礼なお願いであるとは承知していたが、菅総理の延命の為の解散、などと争点がぼけないように、解散をしたのち、即時引退を表明してほしいとお願いした。解散した総理が、その総選挙に出ない、というのは奇天烈だが、まだ事故の記憶と恐怖感が国民に残っているうちに、国民の意思表示を求めたかった。
総理は解散しても続くが、党代表は辞任。新しい党の代表は、解散後に代表選挙で選び戦う。鳩山氏には、総理経験者ということで、菅総理と共に引退をお願いし、小沢氏のような不信任案で欠席した方々への公認をせず、混沌としてた党内を世代交代と共に整理一新することも願っていた。
原発への国民の意思表示。民主党内の世代交代と整理一新。地元選出議員の震災対応の評価。
震災後半年も経たない中での選挙に、「そんな場合か!!」との声があることも承知していたが、不信任だなんだで政界自体が混沌としていたこともあり、一からで直した方が結局は震災復興は進む、と思っていた。
当然、総理の反応は厳しかった。解散という重い決断の上に、引退まで。だが、失礼を承知で訴えに訴えた。総理が以前所属していた社民連の党史冊子を引っ張りだし、「ほら!以前から仰ってたじゃないですか!」と迫ったり、妻に手紙を書いてもらって説得の一助にしたり、ありとあらゆることをした。
総理が「解散しても、小沢さんは無所属でも勝ってくるよ」と言うので、個人的に小沢氏の選挙区の調査をかけた。結果は、民主党公認候補が出た場合、無所属の小沢氏は落選。その資料と共に再度説得もした。総理の任期が閉じる最後の最後まで、お願いし続けた。でも、この通り、叶わなかった。
もし現実に行われていたら、どうなっていたのか。少なくとも、政治も原発政策も今のようにはなっていない。
<当時の食事>
ここで当時の食生活をまとめて書いておく。震災発生からの数日間は、秘書官付室に備蓄していた大量のカップラーメン。
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「秘書官付」とは、秘書官の秘書。各秘書官の出身省庁から若手(私と同じ年代)が秘書官「付」として派遣される。国会答弁を徹夜で作成する、官邸内でもっとも過酷な立場。その為に、夜食を大量備蓄をしていた。備蓄がなくなりそうになった時に、彼らからオーダーをとって再度備蓄する。
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官邸の食堂は当然閉まっているし、外で食べる時間もなかった。毎日毎食カップラーメンだけを食べた。総理だけは、簡単な食事が作られて運ばれていた。16日以降は、官邸裏の「はしご」でダンダン麺か、CoCo壱番屋でカレー。妻に頼んで色々差し入れを運んでもらったり、色々な方から差し入れを頂戴した。秘書官室、付室、長官室、副長官室、補佐官室の職員全員分を用意したので大量な数。疲労と共に、食事に飽きていた時だから細やかな楽しみだった。
以下、覚えている分だけ備忘録。「コージーコーナー」のシュークリームとエクレア。「麻布十番浪花家総本店」のたい焼き。「クリスピークリーム」のドーナッツ。「麻布十番富ちゃん」のお稲荷さんとスープ。「麻布十番萬力屋の主人」からドーナッツ。「鳩山事務所芳賀さん」からケーキ。「総理夫人」からカットフルーツを毎日。
<秘書官への御礼>
官邸時代、各総理秘書官には本当にお世話になった。役所の年次ならペーペーの33歳の若造をいつも支え、時々頼ってくれた。菅直人という特別なタイプの下で働いたからこそ、一体感も持てたし、私のような存在に役割があったのかもしれない。その後もお付き合いのある皆さんだが、改めてこの場で一人一人に感謝の言葉を申し上げたい。
岡本政務秘書官(政務):忠誠心と機密性では群を抜いていた岡本秘書官。スケジュールを一手に預かるからこそ、相当な重圧だったはず。震災直後、公邸に帰らない総理の為に、自身も机に突っ伏して幾晩も過ごしていた姿を思い出します。一緒に爆発直前の福島原発に行きましたね。あの戦慄は忘れられません。あなたが受け入れてくれたからこそ、私も仕事が出来たんだと思います。また、どこかで。
山崎秘書官(厚労省):事務秘書官のとりまとめ役。官僚なのか政治家なのか解らぬほど、縦横無尽にご活躍されてました。父と子?ほど離れた年齢差があるにも関わらず共に仕事ができたことが何よりの喜びです。山崎秘書官からは官僚機構の特性、付き合い方を教わり、大きな自信を付ける事ができました。また、こことは関係ない色々な企みも本当にいい想い出です。
以下、机の並び順で。
羽深秘書官(財務省):予算編成やら何やら、日々重責を担われていた羽深秘書官。震災時の為替介入開始で「よし!!」という快活なかけ声、忘れられません。サッカーもお好きで、本気でナデシコ決勝に行こうとしてましたね(笑)ザッケローニ監督をみると瓜二つの羽深秘書官を思い出します。
貞森秘書官(経産省):国際派の貞森秘書官。着任早々の総理決裁が上手く行かず、二人で色々相談したのが昨日のようです。原発事故という巨大な問題の渦中で、官邸と経産省に挟まれ大変だったと思います。前任の新原秘書官とはうってかわって整理整頓された机が、隣に座っていたものとして印象的でした(笑)
新原秘書官(経産省):一番真面目で、一番シャイな方だった新原秘書官。報道対応窓口ということで、今はなき「ぶら下がり」対応で毎日大変でしたね。いつもお洒落なスーツとタイと靴が羨ましかったです。秘書官時のみならず、秘書官後のエネ庁新エネ部長での活躍も目を見張るものがありました。
桝田秘書官(警察庁):一番寡黙に仕事に専念されていた桝田秘書官。そんな桝田秘書官ですら、福島第一原発で少々不安なお顔をされていたのが、私自身の恐怖心を一層高めました。総理の突然の行動に警備担当として四苦八苦されたと思います。それでも大事無く終えられたのは桝田秘書官の陰ながらの努力の成果と思い、尊敬しておりました。
前田秘書官(防衛省):防衛省初の総理秘書官ということで最初は戸惑われることが多かったかもしれません。それでも前田秘書官独特の人の良さが、馴染みを早くしたのだろうと思います。前田秘書官がいなければ、震災・原発対応で様々なことがもっと滞っていたと思います。岡本秘書官に次ぐヘビースモーカーでしたね。お体の為に、そろそろご検討を(笑)
山之内秘書官(外務省):一番総理に対し、もの言う秘書官だったと思います。各国の政治とトップを見ているからこそ導かれる「国のトップのあるべき姿」について、よくよく教えて頂きました。あれほど記者クラブからの反対の強かった、毎日の総理ぶら下がりを廃止することが出来たのも、陰ながら応援してくれた山之内秘書官のお陰です。ご趣味のロックつながりで、どこかでお会いするかもしれませんね。
そして、付き室の皆さん:ズッキーズが、如何に大変か隣の部屋から眺めておりました。あの痒くなるベットを改装出来なかったのが悔やまれてなりません。同じ年代として、もっとお付き合いしたかったのですが、任期中色々ありすぎて叶いませんでした。また、どこかで。
総理執務室、そして長官室の事務の皆様:Kさん、Nさん、大変お世話になりました。礼節を何気なく教えて頂いたと思っております。震災時、サンダル履きでウロウロしてたのをNさんに笑われたのは恥じながらもいい想い出です。退任時、Kさんに泣いて頂いたのは今でも忘れられません。本当にありがとうございました。
311の記憶は以上です。あれから4年、大きな震災、事故の割にあまり変わらぬ日本に不安を感じます。再び国政に戻った身として、この記憶から導きだされる教訓と共に、着実に前進して参りたいと思います。
最後までお読み頂き本当にありがとうございました。
2016-09-10 03:26