脂肪に対するヒステリックな反対運動は紛れもない魔女狩りになってきた。
ニューヨークのブルームバーグ市長による大型の炭酸飲料の販売禁止措置(一時的に差し止めを受けている)や嫌がる児童たちに葉っぱや小枝(すなわちサラダ)を食べさせようとするミシェル・オバマ米大統領夫人の活動――すべては肥満根絶の名の下に行われている――など、米国では脂肪が悪玉扱いされている。
F. Martin Ramin for The Wall Street Journal; Food Styling by Brett Kurzweil 確かに、カリスマシェフのポーラ・ディーン氏やガイ・フィエリ氏のテレビ番組のように脂肪を肯定している番組もある。だが、全体的な文化においては、そうした脂肪の多い食べ物をレッドネックフード(これは階級に基づく不名誉なレッテルで、私個人はレッドネックもレッドネックフードも好きである)呼ばわりしている。つまり、プリウスに乗ってピラティスのクラスに通うような人の食べ物ではないということだ。
しかし、高脂肪食の世界には、ベーコンやバーベキューの域を越えたもの、食通が好む装飾過剰な高脂肪食ではなく、基本的で気取りがない素晴らしい高脂肪食がある。たとえば、ガチョウのロースト、牛のスネの髄、クロテッドクリームなどだ。肥満防止運動という神聖さをまとった脂肪をめぐる文化の戦いがエスカレートしていくなかで、こうした高脂肪食はどういうわけか置き去りにされている。これにより高脂肪食を食べることと、大量生産されている油で揚げたジャンクフードを食べること、あるいは太った人や太った人になることが混同されやすくなっている。
肥満防止はあっぱれな目標だが、見境のない脂肪ハンターたちの論理的根拠となってしまっている。これはバターやヘビークリームが好きな人にうるさく注意するなど、太り過ぎの人たちへのある種のいじめにも変わっていきかねない。反脂肪運動家たちに筆者はこう言いたい。脂肪を多く含むジャンクフードについては好きなだけ攻撃すればいい。筆者もそれには賛成だ。だが私から骨髄のローストを奪うのは私が死んでからにしてほしい。
筆者は純粋な喜びだけに基づいて、こうした人生を変えるような食の経験を提案しているわけではない(純粋な喜びに関しても話したいことは山ほどあるが)。実際のところ、こうしたことに関する科学的見解も変わってきているのだ。脂肪分の多いおいしいものが身体に良いということがわかってきたのである。そうした食べ物はスペイン人、イタリア人、ギリシャ人の寿命を延ばし、より少ない量で人に満足感を与えるという。筆者が口添えしているのは肥満に直結するような脂肪ではなく、うっとりするような官能的満腹感を与えてくれるような高脂肪食である。
たとえばガチョウのローストは最高にジューシーで、精神状態を変えるほど風味豊かな高脂肪食である。それなのにガチョウのローストは、米国のほとんどの地域で、かすれた声で「もうたくさんだ」と鳴き、心臓死をもたらす不吉な鳥とみられている。そしてケーブルテレビの番組に出演している医師たちの話を聴いていると、バターを使って調理することはメタンフェタミンを製造するよりも悪いことだと思ってしまうかもしれない。
高脂肪食を食べることは料理版『ブレイキング・バッド』になってしまった。いわば、味気ないバターの代用品やリーン・クイジーン(低カロリー冷凍食品)を食べている臆病な消費者が誤って手を染めてしまう危険な行為である。こうした食品恐怖症が蔓延すると、われわれは刑務所で出るような薄粥(もちろん全粒のやつ)と農業関連産業が推進するフードピラミッドに含まれているケール、コラード、ホウレンソウ、その他の農薬が使用され、大腸菌による食中毒の恐れがある野菜や果物を1日9サービング(1サービングは生野菜で1カップ)だけしか食べられなくなってしまうだろう。
それよりもさらにひどいのは、脂肪嫌いの間抜けどもがわれわれに食べることを強いる卵白だけのオムレツで、これはもう最悪である。自己満足している健康志向者の多くが満腹感の象徴と考えているねばねばした青白い卵の白身の塊を我慢して食べるという人生に、寿命を数カ月間延ばす価値などあるだろうか。彼らは食事の罪を清めたがっている。筆者なら下剤を飲んででも腸を空にしたくなるだろう。
脂肪恐怖症はいかにも米国的な摂食障害、拒脂肪食症とでも言うべき国民病になってしまった。シェイクスピアの『十二夜』で戒律の厳しい清教徒の支配を憂い、「もはやケーキやビールは楽しめなくなるのか」と嘆くトビー伯父さんのような人はいないのだろうか。
ここには栄養やコレステロールへの懸念以上に深いなにかがある。反脂肪運動に性的欲望への不安が隠れていることはフロイト学派の人でなくともわかる。口で快楽を味わうことは悪であり、アダムとイブの時代にまで遡る悪魔の誘惑の手段だということが米国文化に深く刻み込まれている。肉体的快楽を忌まわしく邪悪なものと糾弾し、自ら進んで苦行すること(今日の卵白オムレツを予知していたのか)を求めた清教徒牧師コットン・マザーを思い出してほしい。
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Getty Images レストランガイド、ザガット・サーベイの高級ステーキハウスの講評には「心臓外科医の文書での許可が必要」などいう退屈なジョークが書かれ、肉という言葉が出てくる度に「皿に載った心臓発作」、「動脈への追い打ち」といった冗談が繰り返されている。このことからもわかる通り、われわれは食べ物が差し迫った死期の象徴となっている文化に生きているのだ。
ところが、反脂肪絶対論を覆すようないくつかの新たな発見があった。たとえば最近のニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン誌上で報告されたオリーブオイルを多く使う「地中海料理」に関する研究成果がある。これには次のようなかなり衝撃的な新事実が含まれていた。「リスクが高い人々の心臓病や心臓発作の傾向を5年間観察したあと、研究者たちはもはや道義上、低脂肪食を推奨し続けることができなくなった」
反脂肪運動家たちはよく聞いてほしい。あなたたちは、低脂肪が身体に良いということを真に受けた人々を死にいたらせようとしている。リスクが高い人々を、危険であるばかりか、恐ろしく質素な食事を取り続けるという死ぬほど退屈な人生に追いやったのである。
逆説的ではあるが、豪華でおいしい高脂肪食を食べることに関する最も決定的な根拠は、マイケル・モス氏の新しい著書「Salt, Sugar, Fat: How the Food Giants Hooked Us(塩、砂糖、脂肪:食品大手はいかにしてわれわれを虜にしたか)」に見つけることができる。同氏はこの本で「感覚的な飽和感のポイント」という効果的な文句を使っている。モス氏の定義によると、これは「独特で濃い味に圧倒された脳が、もっと欲しいという欲求を抑制する傾向」だという。
これはすごいことだ。著者は広範にわたる影響を見逃しているが。モス氏は悪の加工食品業界がこの概念を利用していることに的を絞って猛烈な批判を繰り広げている。同業界は、食べたいという気持ちを抑制する感覚的な飽和感ポイントを意図的に避けることで脂肪の多い油で揚げられたジャンクフードを消費者に過食させようとしているという。
言い換えれば、感覚的な飽和感はわれわれの味方である。そのポイントを見事に刺激し、脳を喜びで圧倒するのに最適な食べ物こそ高品質の高脂肪食なのだ。高脂肪食はわれわれの過食をも防いでくれるのである。控えめな分量のショートリブ肉や北京ダックは、非常に深い喜びを与えてくれると同時に自制もしてくれるのだ。脳が無意識の喜びにうっとりすると、依然として欲しがっている大脳皮質に中途半端な飽和感を詰め込む必要がなくなるのだ。感覚的な飽和感は、適量で最高に満足感がある高脂肪食を食べることの正しさを疑いのない(科学的な)事実にしてくれた。
そこで、人類に貢献したいという絶え間ない欲求の一部を満たすため、筆者が脂肪で味わった感覚的な飽和感の特徴的な経験のいくつかを紹介していこう。
亡くなったホーテンス叔母さんが作ったチーズケーキは、私に脂肪の素晴らしさと威力を教え、人生観を変えてくれた。笑わないでほしい。これはきわめて重要な話だ。子供だった私がこれを初めて食べたのは、母方の家族の集まりでのことだった。私は想像もしていなかった快楽の領域に連れて行かれたように感じた。私の脳の回路も永久に変わってしまった。ホーテンス叔母さんはそのチーズケーキを非常に脂肪分が多いヘビークリームとやはり脂肪分が多いサワークリームをたっぷりと混ぜて作った。そのクリーミーなケーキの密度と濃度は熱核反応に必要な臨界質量にまで達していた。
次に紹介するのはガチョウのローストである。筆者の知人の多くが1度もガチョウのローストを食べていないことには本当に驚かされる。彼らの機嫌がいつも悪いのはそのせいだろう。私は昔からずっと、チキンやターキーよりもダックを好んできた(今でも断然ダックが好きである)。だがガチョウのローストには及ばない。パリッとして金色を帯びた皮といい、ジューシーで脂っぽくて風味豊かな肉といい最高である(ただし、加熱しすぎないように)。
フォアグラなどいらない(道義に反している気がする)。感謝祭には「バターボール」ターキーの代わりにガチョウを調理すべきだ。ドライで繊維っぽい肉のバターボールにはたれが注入されているが、脂肪を嫌う国民に対して同社はそれとバターとは一切関係がないと慌てて否定する。非常に残念なことだ。
家禽の話をしている以上、北京ダックを忘れるわけにはいかない。ただし、前日の残り物を出すような店には行かないように。事前にその料理を予約するような店がいい。いちばん大事なのは皮である。パリッとした皮は輝いており、細く切られた一片一片には薄くて非常に柔らかい肉と脂肪が付いている。誇大宣伝されている海鮮醤は必要なかろう。
高級料理の次は質素なラードである。プラスチックのようなショートニングの代わりにラードを使って焼いたクッキーを私に紹介してくれたのは中西部出身のかつてのガールフレンドだった。ペイストリーに関してはバターを多く使用したもの好みだが、ラードを使ったものにはスモーキーで素朴な風味がある。溶かされたダックやガチョウの脂の方が好みだが、ラードはハッシュブラウンを揚げるのにも良い。(ハッシュブラウン・イン・クリームを食べたことがあるだろうか。ブルックリンに昔からあるゲージ&トールナーではかつてこの名物料理を出していた。あれは最高だった。)
そしてステーキである。脂がすごく多いビーフのリブアイカットの上部を囲むようにカーブしているカラペース(carapace)が最高だとするボーグ誌の料理記者、ジェフリー・スタインガーテン氏の意見に筆者も賛同する(ポーターハウスやTボーンの小さくてより柔らかい方がうまいという意見もあるだろうが)。それでも本当のビーフの脂身、肉の真髄を捉えているという意味では、ゆっくり煮たショートリブがほとんどのステーキカットよりも勝っているかもしれない。溶けだした脂、うまい肉汁と共に味わうスプーンで骨から切り離せるとろけたビーフは絶品だ。
いや、よくよく考えると、肉の風味がいちばん良いのはビーフの真髄である骨髄のローストだろう。その大半が脂肪だが、純粋に脂肪というわけではない。ニューヨーク市のレストラン、ニッカーボッカーやプルーンのようにスネの骨を縦に割った状態で出されると、その片方を食するだけで感覚的な飽和感を覚える状態が1週間は維持されるだろう。
次はナッツバター。米国の食品界でも大きなスキャンダルの1つは、ナッツバター――最高の高脂肪食経験が味わえるものの1つ――の話をしようとすると、ほとんどの人が「それはピーナッツバターみたいなものですか」と聞くことだ。
これは無知で冒とく的な言動である。アーモンドバター、カシューバター、ピーカン・バター、ピスタチオバター、マカダミアバターなどで、脂肪摂取不足のベジタリアンたちでも楽しめるさまざまな味がある。本当においしいので、テーブルスプーンで2杯も食べれば感覚的な飽和感に達してしまう。均質化されていない、Jifとは違うタイプのペーストのピーナツバターでさえ、ナッツバターには大きく水を明けられている。まだこうしたバターを食していないとすると、本当の意味で満ち足りた人生は送っていないことになる。
ハンバーガーの話を続けてもいいが、この話題は他でも多く取り上げられているので意味がないだろう。チャンスがあればラムバーガーを是非とも試していただきたい。それも生のタマネギとスパイシーな北アフリカのハリッサソースだけで。普通のハンバーガーには戻れなくなるはずだ。
最後はクロテッドクリーム。筆者は読者の将来の高脂肪食生活のために幸先のいいスタートを提供してきたが、これなしでスコーンを食べるなど考えられない。筆者が最初にそれを食べたのはイングランドのデボン州の田舎だった。そのときほどクロテッドクリームをおいしく感じたことはない。その濃厚なクリームはスイートバターになるか、酸化してサワークリームになる直前で気が変わったようで、その最も芳醇な味わいを濃く、滑らかでクリーミーな液体のなかにあるバターのような固体に凝縮させることにしたようだ。通信販売で手に入れることもできるが、ニューヨーク市にあるいくつかの英国系の店舗に行って見つかったのは、どちらかというとまろやかなクリームチーズスプレッドのようで、筆者が覚えている液体と固体に分離しているダブル・デボンシャーというブランドのクロテッドクリームとは異なっていた。
以上は筆者が気に入っている高脂肪食のほんの一部である。まだまだたくさんあるのだが紙面が足りない。
まあ、見ておいてほしい。私の贅沢に高脂肪食を食べるというスタイルが流行し始めたら、人々は控えめな量の快楽では肥満にならないということ、脂肪は新しい健康食になるということに気付くだろう。筆者の理想のダイエット本のタイトルは『脂肪を食べながら体形維持』。つまり、ケーキとビールだけではなく、ガチョウのローストも一緒に楽しむのである。
2013-03-21 16:14