想像力より感情能力の問題だ

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 11月16日に投開票を控える沖縄県知事選挙。現職・仲井眞弘多知事による、米軍普天間基地の辺野古移設を目的とした埋め立て承認の是非が最大の焦点だ。この推進・反対をめぐり県内保守勢力が分裂。国内米軍基地の7割以上(面積比)が集中する沖縄で、基地返還への熱気が近年最大の盛り上がりを見せている。 一方で「問題は基地が還ったその後にこそあります」と指摘するのは、社会学者の宮台真司だ。10月には作家・仲村清司との対談本『これが沖縄の生きる道』(亜紀書房)を上梓し、従来とは別の角度から沖縄を論じている。琉球諸島へ何度も足を運び、元知事・大田昌秀氏とも議論するなど、深い場所から沖縄の考察を試みる宮台にインタビューを敢行した。話題は沖縄だけに留まらず、地方の〈ヤンキー〉、ネット右翼問題、そして〈劣化〉問題へと発展。前・後編にわたってお届けする。………………………………………………──まずは今回の沖縄県知事選についてお聞かせください。今度の選挙は、保革を超えて「基地反対」でつながったことで、沖縄のアイデンティティを取り戻す戦いだという機運が高まっていると思うのですが。宮台真司(以下、宮台) まず強調しておきたいのは、今回の知事選における翁長雄志氏の「オール沖縄」運動は、根本的な問題を沖縄の人たちが共有する従来にないチャンスだということです。しかし、左右対立を超える「オール沖縄」は良いが、沖縄アイデンティティを持ち出すのは違う。たとえば、沖縄タイムスと琉球新報は話題になったスコットランド独立運動を沖縄に引きつけて「アイデンティティかカネか」と紹介していましたが、今日アイデンティティ・ベースの独立運動はあり得ない。スコットランドにはゲール人系もいればケルト人系もいればイングランド系もいるわけで、アイデンティティを持ち出すと差別と抑圧が隠蔽される。そこで、スコットランドはアイデンティティではなく価値を独立の理由にした。スコットランドは気候が厳しく工場労働者が多いので、一貫して議会選挙で労働党議員を送り出してきたんですが、独立に際しても、新自由主義をイングライド的な価値として否定したわけです。沖縄も同じで、アイデンティティに頼ったら宮古差別・八重山差別・奄美差別が隠蔽される。沖縄も〈価値のシェア〉をベースに「オール沖縄」を展開すべきなんですよ。──沖縄における〈価値のシェア〉とは何なんでしょう?宮台 保守すべき沖縄社会の価値に合意することが〈価値のシェア〉に相当します。そもそも保守には、かつての亜細亜主義者のような〈社会保守〉、安倍晋三推しの経済界の如き〈経済保守〉、反共主義者や反韓主義者みたいな〈政治保守〉、アメリカの福音諸派のような〈宗教保守〉がありますよね。たとえば、安倍の場合は〈経済保守〉で財界が喜ぶように経済を回そうとする。政権維持を図って『戦後レジーム』を終らせるというように〈政治保守〉としてもふるまっているけど、その部分は馬鹿なネトウヨしか共感しないから、〈経済保守〉の側面だけを注視すればいい。他方、翁長氏はしまくとぅば普及運動を推進する〈社会保守〉です。戦間期の和辻哲郎の『風土を守る』『習俗を守る』の発想に近い。〈社会保守〉の特徴は国境にこだわらないこと。戦間期の北九州にいた亜細亜主義者たちが典型です。カネにこだわる内地の〈経済保守〉は浅ましく、国境にこだわる内地の〈政治保守〉は頓珍漢で、どちらも沖縄の道じゃない。むろん〈社会保守〉を貫徹すれば観光価値を長期的に保全できる。つまり、翁長氏が自民党と袂を分かって戦う理由は、内地の〈経済保守〉と沖縄の〈社会保守〉が両立しないからだ、と宣言すべきなのです。
──たしかに、内地の〈経済保守〉にひっぱられるかたちで、沖縄が基地を甘んじて受け入れてきたという側面はあると思います。ですが、そこでひとつ疑問が生じます。なぜ沖縄はこれまで内地の〈経済保守〉に対抗しきれなかったのでしょうか?宮台 それを理解するためには、今からいう前提を知っておく必要がある。内地と違い、血縁主義による分厚い家族・親族ネットワークがある沖縄では、顔見知り範囲の〈社交〉はあっても、国民共同体みたいに見ず知らずの範囲に及ぶ〈社会〉の観念がない。〈社交〉を越える〈社会〉の観念がないと、広域をガバナンスできません。たとえば、基地返還が毎度カネで片付けられるのは、血縁に軍用地地主がいたり交付金による土木事業に関わる者がいて、声を挙げづらいからです。基地依存経済だからという単純な話じゃない。でも〈社会〉観念の不在は、古層まで遡ればどこでも同じです。〈見ず知らずからなる我々〉の意識は、19世紀に戦争への共同防衛の意識から欧州に国民意識が醸成されるまで、歴史上ありませんでした。日本も19世紀末に天皇を使って〈見ず知らずからなる我々〉の意識をやっと醸成した。見ず知らずの人を名指して敵だ味方だといきり立つネトウヨのような馬鹿は、19世紀になるまで世界のどこにも存在しなかったわけです。ところが沖縄では、聖性を水平に観念するニライカナイ信仰が象徴するように、古層が残り、〈社交〉の外に〈社会〉を中抜きして直接〈聖なる世界〉が拡がっている。実際、離島を含めた琉球王国の範域を覆う〈我々意識〉は、今に至るまで存在しません。ちなみに〈見ず知らずからなる我々〉を背景とした国民国家(主権国家)は2段階で成立しました。第1段階は17世紀前半の30年戦争。新教と旧教の諸侯間のこの宗教戦争を、各諸侯に信仰の自由があるとする形で手打ちしたのがウェストファリア条約です。本来は「神が人を選ぶ」以上、「人が神を選ぶ」とする手打ちは、敢えてする虚構です。実際当初は、主権sovereigntyの概念の元になるsovereignも「諸侯」を意味しました。第2段階は、フランス革命後の王朝弱体化を背景とした「皆で武器をとらないと掠奪される」との危機感。そこから〈諸侯にとって代わる我々=見ず知らずの我々〉という国民意識が生まれたのです。〈社交〉と区別される〈社会〉の誕生です。──つまり、沖縄には〈社会〉がないが、内地の人々が想定している〈社会〉もそもそもは虚構から成立したものだった、と。そしてその虚構を信じることで、内地の私たちは日常を生きることができていた。では、沖縄のように〈社会〉ではなく〈社交〉のうちに生きるということは、内地とどのような違いがあるのでしょうか?宮台 ひとつは、沖縄には〈社会〉の概念がないので広域ガバナンスがなかなかできません。ゆえに、基地返還の実現には〈社会〉を持たずに広域ガバナンスをする戦略を編み出す必要があります。しかし、柳田國男がそうでしたが、僕には〈社会〉の虚構を信じない沖縄が魅力的に見える。昨今ではグローバル化で中間層が分解した結果、どこでも国民意識が風前の灯になり、〈感情の劣化〉を被った全体主義者が出てきています。国境を否定するイスラム国に先進国の若者が大挙参加する背景にも、中間層の分解による殺伐化と、国民意識の崩壊がある。〈見ず知らずからなる我々〉の虚構は意外に寿命が短く、ガバナンスができなくなって各国は混乱しているというわけです。つまり〈社会〉を欠くがゆえの広域ガバナンスの困難は、沖縄だけの問題じゃない。グローバル化を含めて副作用だらけの〈社会〉の虚構に依存することなく、広域ガバナンスを達成するという課題に、沖縄がどこよりも早く直面しているということなんです。だからこそ、翁長氏の「オール沖縄」運動は、ここで紹介してきたような問題を沖縄の人たちが共有する、類例のないチャンスだと思う。チャンスを利用して、沖縄が抱える構造的問題を解決する具体策につなげてほしいんです。
──沖縄が抱える構造的問題とはどういうものでしょう?宮台 基地をネタにカネを引きだそうとした結果、基地に依存する経済体質になって抜けられなくなる。自己決定的な敢えてする依存が、余儀なくされた依存に頽落する。これが構造的であるという意味です。こうした〈自律的依存から他律的依存への頽落〉はフクシマも同じですが、沖縄の場合、内地からカネを引き出すのが〈復讐〉だとする共通了解があった。でも、霞が関官僚にとってそんなことはどうでもよく、カネで片がつく話だから沖縄が何を言っても取り合う必要はないと〈軽蔑〉される。こうした〈復讐〉と〈軽蔑〉のカップリングが沖縄の尊厳を自己破壊しているんだけれど、基地返還跡地が「どこにでもあるショッピングモール」になることも、内地の役人連中から「所詮はカネか、くっくっく」という〈軽蔑〉を招きます。──そうなると基地問題は完全に固定化しているように感じますが、それを解決することはできるのですか?宮台 方法が3つあります。第1に、米軍施設の各々について隣接市町村が基地存置の是非をめぐる住民投票を行う。過去20年で米国外に置かれた米軍基地の数は3分の1に減りましたが、それは独裁政権崩壊後の住民投票が背景にあります。第2に、住民投票に際して跡地利用計画をめぐる地域住民の熟議を興す。そのことで、日本政府と米国政府の双方に対し「本気を示す」と同時に、分断されがちな地域で〈我々〉を取り戻すのです。第3は、基地に関係する外交アクション。基地について日米両政府が合意する際、先行して沖縄の合意をとりつけることを必須条件とするよう両政府に要求する。沖縄が日本の米軍用地の74パーセントを引き受ける以上、当然です。今は(1)沖縄を蚊帳の外に置いて日米合意し、(2)『丁寧なご説明』と称して沖縄に押しつけ、(3)納得しなければカネで手打ちする、という順番になっていますが、実は、沖縄には日本政府の頭越しにアメリカ政府と交渉する力が今もある。辺野古で、防衛庁が珊瑚礁を守れるシュワブ内陸案で行こうとしたら、土建屋からなる民間親睦団体の沖縄県防衛協会北部支部が大量の砂利とコンクリを使うV字型滑走路案にアメリカ政府と密かに合意、引っくり返してしまいました。この親睦団体代表が仲井眞知事なのだから笑える。彼が『珊瑚礁を守る県外移設』なんて本気で考えるはずがないじゃないか。なのに琉球民族独立総合研究学会の知念ウシなどが『仲井眞さん頑張って』と叫んでいたのだから、呆れるわけ。──なぜこれまで沖縄は、宮台さんのいうような方法をとれなかったのでしょうか。宮台 実は1990年~98年の大田昌秀県政がこれらを実行しようとしたけど、第1については、96年に県民投票が1度行われただけ。それ以降1度もない。今度の知事選では下地幹郎候補がこれを主張しているけど、有効な戦略です。第2については、41箇所あった米軍施設毎に跡地利用計画を立てる「基地返還アクションプログラム」が、県内マンパワーの不足から中央のコンサルに丸投げして終わった。普段から内地を含めた知的ネットワークを動かす必要があります。関連する「国際都市形成構想」も、フリートレードゾーンの経済話に終始したのが失敗でした。二重冊封体制や内地による周辺化の歴史を踏まえ、日本を敵視する国が参加する国際会議の場所にこそ相応しいと押し出すべきだったのです。そして、長期のルネサンスを目差す大田構想が失敗した理由を反省して巻き直すことなく、霞が関の一部役人が馬鹿にするように短期のキャッシュに目が眩んだ結果が、北谷やおもろまちの基地跡地にできた大型ショッピングモールです。
──しかし、公共事業は、閉じた地域経済に経済波及効果をもたらすものという理解が一般にはありますよね。事実、北谷のショッピングモール・ハンビータウンは基地跡地利用の成功例として語られる場合が多い。宮台 間違ってるね。第1に、どこにでもある娯楽施設は、観光地としての付加価値を増大どころか減少させる。第2に、共同売店に代表される自立的経済圏を破壊、出資の多くが内地だから相対的に僅かな雇用とカネしか沖縄に落ちない。第3が大問題で、これが内地なら単なる愚昧な自業自得という話で終わるけど、沖縄の場合はこうした政策的不作為が帰結する「本土並み化」で、風土から生活形式まで含めて〈社会保守〉が不可能になり、沖縄は沖縄でなくなる。──それは沖縄の人たちがのぞむことではない、と。実際、本書のなかでも宮台さんの周辺にいる沖縄から内地へ出てきた若い世代のなかで、「沖縄が嫌いだ」という人が増えてきたという話がありましたね。宮台 社会が空洞化すると埋め合わせとして奇妙な観念が跋扈する、とするヨアヒム・リッターの埋め合わせ理論があります。沖縄が空洞化すると、元に戻す代わりに、しまくとぅばやアイデンティティや歴史の説教が持ち出される。これらは〈社会保守〉に見えて、実はそれにつながらない弥縫に過ぎない。気休めに過ぎないものが押しつけられると、年長世代と記憶を共有しない若者が反発します。過去の悲劇を持ち出すことで、むしろ共同体が世代的に分断されるのです。内地でもそれが起こっています。「〈恨みベース〉から〈希望ベース〉へ」と僕が言うのはそれに関係する。1985年のヴァイツゼッカー西独大統領演説じゃないけど、〈過去〉の罪体験や被害体験は人それぞれで、皆を一つにしない。〈未来〉への価値を共有し、希望を実現する責任を共有することだけが、共同の未来を切り開く。どんな〈未来〉に価値を認めるかで一つになろうとせず、〈過去〉の怨念で一つになろうとしても社会構想につながりません。スコットランド独立運動が、人頭税の怨念よりも、ネオリベ(経済保守)否定を前面に掲げる理由です。──地域社会に注目すると、本書でなされている議論は沖縄に限ったことだけではない気もします。一部では里山資本主義的な動きもありますが、結局地方は、土建屋的なものに頼らざるをえない。地方にいくと、いわゆる〈ヤンキー〉が地域社会をまわしている。例えば日本JC(日本青年会議所)はその象徴のような印象がありますが。宮台 内地は地縁社会で、沖縄のような血縁による家族・親族ネットワークではない。同じ釜の飯で地元の小中学校を一緒に過ごした連中の共同意識が強く、その範囲での相互扶助は東京から想像もできない。それがJC的なものです。しかしそれが必ずしも自立的共同体を意味しない。維新政府以来の伝統で、これら地域団体は自民党的中央行政のガバナンス下にあり、選挙の際には戦前的動員システムがそのまま使われる。その結果、昨今の沖縄と違って〈社会保守〉と〈経済保守〉と〈政治保守〉の差異に気づかず、日の丸万歳≒安倍晋三万歳みたいな思考停止に陥り、地域空洞化の墓穴を掘る。戦前からの歴史を知る者からすれば、これは保守ならぬ劣化にすぎない。こうした地域団体は、欧米では中央行政と距離をとるためのものですが、日本では明治5年以降の行政村による自然村の置き換えに見られるように、地域団体が中央行政のツールとして再編されてきた。ヤンキーやJC的なものが地域を回すというのは、そのことです。柳田國男が定住的農民ならぬ非定住的山人を価値の準拠点にしたのも、江戸時代このかた地方が内発的に積極性を発揮したことがないという歴史を慨嘆してのこと。さらに戦後を見ると、60年代まで地方出身者やブルーカラーは見ただけで分かった。地方は劣等感を抱き、それゆえに上昇欲求を抱いた。それを背景に、ムラは地域一丸で神童を中央に送り出し、神童は故郷に錦を飾ろうとした。それゆえに帝国官僚は「立派になる」という言葉に象徴されるように、公共心を持つことがありえたのです。やがて時が経って「立派になる」よりも「うまくやる」ことが優位になり、今ではもう中央の役人に公共心を期待するなどありえなくなっている。にもかかわらず、内地の一部は日本人という〈見ず知らずからなる我々〉を信じ込み、中央行政に思考停止で依存する。こうした劣化を、地縁集団の共同意識と両立させているのが、ヤンキー的なものだと言えるでしょう。巷の見方と違い、これにはまったく可能性がない。──一方、沖縄はまだかろうじて内地の霞が関を追随するヤンキー的地方行政に絡めとられていない、ということでしょうか?宮台 米軍基地があり、反対闘争があり、内地への抗いを意識できる間は、ヤンキー的地方行政にはならない。でも、それは永久には続きません。現に基地が還ったらどうするんだと意識してほしい。それを意識しないから、のんきな反対運動に終始しているんですよ。
──話を沖縄のアイデンティティに戻します。仮にこれが、あくまで問題を共有するための道具立てであるとしても、他方、石垣などでは、中央的な中国脅威論に引きずられるかたちで右傾化が進んでいるという話も聞きます。こういったものが基地維持派の支持母体になるのでは、と推測しているのですが。そうした沖縄の人々のなかには、親米保守の本土的感覚で、米軍駐在もやむなし、とする気持ちもあるのではないか。宮台 自力で物事を考えられない輩は内地にも沖縄にもいます。メディア情報の適切な解釈は、マスコミでもネットでも「こういうことは旦那に聞かなきゃわかんねえ」という対人ネットワーク抜きにありえないとするのが学問的伝統です。それゆえに、対人ネットワークを支える中間層や共同体が空洞化すれば、必ず〈教養の劣化〉が始まる。こうした個人化的な分断による〈教養の劣化〉にメディアリテラシー教育で抗うことはできません。トマ・ピケティの『21世紀の資本論』が言う通り、第2次大戦後の20年間ほどは、重化学工業化と郊外化を背景に分厚い中間層が育ち、それが民主制を健全に回せる公民の存在を信頼可能にした。でも、それは歴史的な例外です。社会学の伝統には大衆社会論があり、人々が個人化的に分断されれば必ず〈教養の劣化〉に加えて〈感情の劣化〉を招くと考えてきた。大衆社会論は、〈社会〉の劣化が「埋め合わせ」としての全体主義を呼び寄せると見ます。それは時代や文化で変わらない普遍テーゼです。資本移動自由化(グローバル化)を伴う資本主義が〈社会〉を劣化させるとするのも、同じく普遍テーゼです。これら2つの普遍テーゼを組み合わせれば、昨今の先進各国における民主主義の危機を簡単に説明できます。──〈教養の劣化〉はまだ何となく分かりますし、実感もあります。そこに加え〈感情の劣化〉が現代には見られると宮台さんは言いますが、なぜ知識の不足やリテラシーのなさではなく、とりわけ感情の問題になるのですか?宮台 昨今は、コミュニタリアニズム・進化生物学・徳倫理学・道徳心理学・プラグマティズムを貫通して、感情プログラムが注目されています。とりわけ損得勘定の〈自発性〉を越える、湧き上がる貢献心としての〈内発性〉への注目。僕が書籍版『白熱教室』(『これからの「正義」の話をしよう』早川書房)のオビを書いたマイケル・サンデルが引用する、マーク・ハウザーのトロッコ問題は、僕たちが〈感情の越えられない壁〉によって制約されることなしに、共同体を営めないことを証明するものです。この〈感情の越えられない壁〉には進化生物学的な継承もありますが、大半は共同体での育ち上がりによってインストールされるプログラムです。感情プログラムの適切性を横に置いて制度論を展開しても無意味だ、とサンデルは言います。2ちゃんねるYouTubeなどでネトウヨやヘイトのキモい佇まいを見てください。ああした愚昧な恥さらしが社会成員の大半になったとき、妥当な制度があれば社会が回せるなんて思えますか。日本に限らず諸分野で感情が注目される理由です。──たしかに今、ネット上は酷いことになっていますね。中傷、差別、嫌悪。正義も、品格もない言葉が乱れ飛んでいます。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。宮台 中間層が分解した現在、〈見ず知らずからなる我々〉の意識は逆に危険で、実際その種の輩たちは、見も知らない人々を一括して敵だ味方だとホザいて回っている。この点、沖縄は〈見ず知らずからなる我々〉をネタ以上には信じないのでアドバンテージがあります。残念ながら、〈感情の劣化〉を示す連中に理屈を説いてもムダです。これを佐藤優氏は「反知性主義の時代」と呼んでいる。理屈を説いてもムダな連中が増殖する中、どうすればいいのか。それを今から説明します。
 日本は反知性主義の時代に突入した。路上では排外主義的デモや人種差別が繰り広げられ、インターネットではネット右翼たちが跋扈している。政治家はこれを利用し、自らの都合のいいように歴史の修正をもくろむ。そして、これらに対抗する言論はまだまだ主導権を握ることができていない。なぜなのか。 社会学者・宮台真司は言う──連中に理屈を説いてもムダ、と。この愚昧さが筒抜けの社会をひも解く鍵は〈感情の劣化〉にあるという。感情のるつぼと化した政治、ネット、ヘイトの深層を〈大衆〉という観点から分析する宮台。インタビュー後編をお届けする。………………………………………………──近著『これが沖縄の生きる道』で、内地と沖縄における〈我々〉意識の違いを論じていますね。そのなかで“感情”という概念を頻繁に用いつつ、ネット右翼たちへの言及もあります。とりわけ宮台さんが問題にする〈感情の劣化〉ついて詳しくお聞かせください。宮台真司(以下、宮台) 〈感情の劣化〉とは、簡潔に述べると、真理への到達よりも、感情の発露の方が優先される感情の態勢です。つまり、最終的な目的が埒外になってしまい、過程におけるカタルシスを得ようとする傾向。別の言い方だと、感情を制御できずに、〈表現〉よりも〈表出〉に固着した状態です。ちなみに〈表現〉の成否は相手を意図通りに動かせたか否かで決まり、〈表出〉の成否は気分がスッキリしたか否かで決まります。部族的段階では「政りごと=政治」と「祭りごと=祭祀」とが区別されなかった。つまり〈表現〉と〈表出〉が癒合していた。癒合を支える前提が、濃密な共同性です。でも複雑な社会になると全域を濃密な共同性で覆えない。だから、文明的段階(帝国的段階)になると、必ず〈表現〉と〈表出〉が峻別されるようになります。例えばプラトンは、紀元前5世紀後半になると、政治に〈表現〉と〈表出〉の峻別を求めるようになります(哲人政治)。近代社会も複雑だから、〈表現〉と〈表出〉の峻別がないと社会システムが淘汰されてしまう。血縁集団であれ、企業組織であれ、国民国家であれ同じこと。だから近代では人々に以前より感情の制御能力が強く求められます。──つまり感情が制御されないとき社会システムは崩壊する、と。具体例としてはどのようなものがあるのでしょう。宮台 例えば、民主主義は無条件では成り立たない。民主制が健全に作動するには、エリートから庶民まで〈表現〉と〈表出〉を区別できなければダメ。前編で話した通り、これが難しいことだと考えるのが大衆社会論の伝統です。大衆社会論は19世紀末に新聞大衆化と共に始まり、マスコミの発達に並行して深化します。未曾有の最終戦争だった第1次大戦の後、民主制が戦争を回避できなかった理由として、ラジオと新聞の感情的動員が挙げられました。いわく、人々が分断され孤立すると、感情的に動員されて、選挙や議会決議で愚昧な開戦に道が開かれるのだと。動員される人々を〈公衆〉ならぬ〈大衆〉と呼びます。にもかかわらず、メディア的動員でナチスが誕生しました。第2次大戦後はナチスへの反省から、マスコミ効果研究と亡命ユダヤ人の批判理論が、人々が分断され孤立した状態に置かれない条件を実証研究した。そして、分厚い中間層が可能にする近隣ネットワークが見出されました。幸い、第2次大戦後の20年間は重化学工業化と郊外化で──専門的には技術革新の限界効用の高さゆえに──先進各国で中間集団が膨らんで中流意識も拡がり、それを背景に民主制の妥当な作動を支える〈公衆〉が信頼された。ところが以降、まず福祉国家体制が財政的に破綻して新自由主義の時代が始まり、続いて冷戦体制が終焉して資本移動自由化(グローバル化)の時代が始まる。かくて過去20年間、先進各国の中間層が一挙に分解したのです。そして21世紀に入ると、先進各国で〈大衆〉の感情に訴えて溜飲を下げる勇ましい連中が、議員や大統領に選ばれるという〈感情の政治〉が始まり、資本移動自由化にブレーキがかからぬばかりか、浅ましい排外主義が跋扈します。
──たしかに、俗にいうポピュリスト政治家たちの躍動は、まさに宮台さんの言う〈感情の政治〉の必然であるように思えます。それはときに、社会の構成員から肝心の政策的関心を矮小化させるという意味で危険を孕んでいる。これを回避する方法はないのですか?宮台 回避には、短期には浅ましい輩から主導権を奪うスモールユニットでの〈熟議〉と〈ファシリテイタ〉の組合せ(フィシュキン&サンスティーン)が、長期には〈感情の教育〉(ローティ)による〈感情の民主化〉(ギデンズ)が必要です。要は、〈感情の劣化〉を被った〈大衆〉を煽動する〈感情の政治〉を潰すべく、短期・長期の戦略を駆使して、〈大衆〉を排除して〈公衆〉を取り戻す。この課題設定は、過去20年間、政治学やその周辺で常識化しています。スモールユニット(マイクロプロセス)が機軸だとされる理由は、マクロな風景が変質したからです。かつてはブルーカラーや地方出身者は見ただけで判りました。今は誰がマクドナルド難民やデリヘル難民なのか外見で判りません。しかも勝ち組も負け組もマクドナルドやネットを使うし、高偏差値大学の子もデリヘルで働く。だからウマクやれる奴とやれない奴の違いがあるだけと意識され、排除された者たちが連帯できなくなり、さもしい嫉みが蔓延します。また性愛ワークショップをして分かるのは、ブルーカラーや地方出身者が一目瞭然だった頃に比べ、性的機会からの排除が強い劣等感と嫉みを来すこと。イケメンでも同じで外見から分からない。一部は劣等感を回避すべく草食化します。こうした状況を福祉学周辺で〈疑似包摂社会〉(ヤング)と呼びます。機会から排除された人々が、それを適切に意識できず、排除された人々同士が浅ましい妬み嫉みでつぶし合う。オーソドックスにはこれがヘイト現象の背景です。こうした分析が妥当なのは、ヘイト連中が、かつてのブルーカラーや地方出身者と違い、僕らの友人知人の範囲に見つかる独特のキモさを漂わせることで分かります。〈自意識の困難を社会の困難にすり替える輩〉独特の佇いです。──ネット右翼やヘイターたちにその種の人々がいることは事実だと思います。しかし一方で、そこから社会保障の拡充やアファーマティブアクションの肯定を志向する人たちもいるんじゃないですか。とすれば、ネット右翼たちには他にも彼ら特有のメンタリティがあると想定されるわけですが。宮台 最初に対処法のヒントになる話をしてから、現象をどう捉えるべきかを話します。僕が若い頃は「左翼」の時代でした。71年に麻布中学に入ると、すぐ半年近くの学校封鎖。それが解けても全校集会と学年集会の嵐だった。麻布中学も、中核と反戦高協と叛旗派など新左翼の牙城。大勢が三里塚に出かけました。教員には革マル教師連合の委員長もいて、中三の修学旅行の帰りに中核派の生徒によるレポで「撃沈」される事件もあった。まあ、暴力の嵐。僕の周辺では、“ヘタレ優等生“が日共やそのフロント学生団体の民青で、“ゴロツキ”が新左翼だと考えていた。僕の周辺の人間関係でも、イデオロギー以前に、佇まいとして、民青はキモくて許せなかったというところがあります。これとイデオロギーが実は関係していた。日共など旧左翼は〈システム〉を整えれば人は幸せになれると考える。だから平等主義一辺倒です。だがそれで良いのか。身を捨てて貢献したい共同体やパトリの存在こそ大切じゃないか。身を捨てて貢献したい共同体を持ち出すのは新左翼です。ちなみに〈システム〉とは損得勘定の〈自発性〉に覆われた領域。損得じゃない情念の〈内発性〉が賞賛される領域が〈生活世界〉。これはハーバマスの用語法ですね。紀元前5世紀来の思考伝統だと、計算可能性を重視するのが〈主知主義〉。情念を重視するのが〈主意主義〉。前者を左と呼び、後者を右と呼ぶのがシュライエルマッハ。その意味で、新左翼は〈主意主義〉で、実は右の系譜です。──一般に右は、自集団が獲得したベネフィットを広範囲に配分することを好まないと思うのですが?宮台 これは説明が必要だね。戦後の日本人は馬鹿になったので、市場主義が右、配分正義が左だと思い込む。ならば戦前の北一輝や石原莞爾や宮沢賢治はどうよ。彼らは法華経ないし日蓮主義に帰依し、自他共に認める右だが、資本主義を否定したじゃないか。だから僕は高校時代からこう言います。社会が良くなれば人は幸せになると見るのが旧左翼。社会が良くなったくらいじゃ幸せになれないと見るのが新左翼。より一般的には、前者が左、後者が右。実際それが戦前の用語法でした。冒頭の言い方に翻訳すると、「話せば分かる」の〈表現〉一辺倒が左。言語化できない〈表出〉の基底を重視するのが右。その意味で、新左翼は右。それが70年代以降は、左といえば、戦後旧左翼の「話せば分かる」に頽落した。だから「左はヘタレで不格好、右が血気盛んで格好いい」というイメージになった。もう言いたいことは分かったでしょう。昔は、ヘタレで不格好なイメージだったのは旧左翼だけ。血気盛んで格好いいゴロツキ新左翼がいた。
──なるほど、〈表現〉/〈表出〉の軸から考えると、昨今のリベラルの凋落も説明できそうですね。実際、リベラル的言説がネット右翼現象を充分に抑止できているとは言いがたいですから。宮台 朝日新聞系の識者は、ネトウヨに対し、歴史を知らないとか教養がないとか言うだけ。歴史を知らないのも教養がないのも本当だが、それを「ネトウヨに対して」言っても始まらない。〈感情の劣化〉とはそういう現実を言うわけ。僕がハッキリ気づいたのは2000年のアメリカ大統領選だった。アル・ゴアが知能指数200、ブッシュは100以下の馬鹿、とネットで喧伝されたら、逆に「だったら俺たちはブッシュの味方だ!」という動きか盛り上がったわけだ。同じことが安倍晋三にも言える。安倍が立憲民主主義の何たるかさえ弁えず、先進各国のエスタブリッシュメントから馬鹿にされまくっているのは事実だけど、それを指摘しても安倍支持者は動かない。それがB層狙いの意味です。B層とは「社会的弱者なのに、それを自覚できないIQの低い連中」のこと。2005年小泉総選挙の際、竹中平蔵関連コンサルの戦略メモにこれを標的にせよと書いてあった。ネット動員を軸とする昨今の自民党の基本戦略でもある。この戦略は、民主制を妥当に回すことに反していたにせよ、先の〈疑似包摂社会〉を前提にした動員戦略として極めて妥当です。学生企業の取締役だった80年代に統計的なマーケット分析の仕事をした僕の経験からも断言できます。──「馬鹿だからこそ支持する」という心性は理解しがたいです。通常、愚かしさは恥ずべきものと考えられます。宮台 ネトウヨは年長から見れば恥知らずな輩だけど、恥の感覚は周囲の視線を気にして初めて可能になります。河野太郎と河野洋平も区別できず、お門違いに河野太郎に河野談話問題で文句をつける、劣化した輩を例にとります。ネットが一般化する90年代半ばまでなら「それは親父の方だろ。そんなことも知らねえの?」と周囲に一喝されて終了。なのに「それでも河野太郎は気に食わねえ!」と恥なく返せるのは、それを許容する〈劣化空間〉があるから。ネットは開かれた参加スペースに見えて、サンスティーンいわく「他を遮断して同じ穴のムジナだけで戯れる閉鎖空間」を与える。それが〈劣化空間〉。昔ならあり得ない恥知らずな議論が超伝導回路の電流みたいに永久に流れ続ける。その意味で、〈感情の劣化〉を被った人々が涵養や陶冶の機会に出会わずネグレクト(放置)されるのが、ネット空間の特性です。それが恥ずべき言論や行為が先進各国で蔓延する背景を与える。何度も言うけど日本だけじゃない。昨今のアメリカでのエボラ騒動もそう。アフリカで自己犠牲的にエボラ熱拡大阻止に奮闘した医師らが、科学的に無根拠な愚民迎合によって幾つかの自治体で隔離対象になり、オバマ大統領が涙を浮かべて抗議会見をしたでしょう。──彼らは根本からして反知性的であるようにしか思えません。教養がないから何かと比した選択を自発的に決定することができず、また想像力も足りないから相手の立場になって考えないということなのでは?宮台 自分が日本人というだけでゴキブリ呼ばわりされたらどう感じるか想像しないのは、想像力より感情能力の問題だ。アダム・スミスは、資本主義が神の見えざる手を駆動させるのは、市民が〈同感能力〉を持つ場合だけだと考えた。僕だって君だって、「日本人にネトウヨが大勢おり、それが支持する安倍晋三が首相をやっている」というだけで、他国でゴキブリ扱いされたくないよね。スミスの〈同感能力〉は、自分が嫌なことを人にしない感情の能力のこと。でも、そんなことを〈感情の劣化〉を被った輩に言っても始まらない。佐藤優の「反知性主義の時代」に知性的言説を発したところで所詮は一部界隈にしか届かない。届かない界隈には、知性的折伏でなく、感情的感染で臨む他ない。学校の教室なら、「◯△はゴキブリ!」みたいに、見も知らぬ人を一括して敵だ味方とホザく輩は、馬鹿認定で終了。ただのイジメられっ子になっちゃう。
──でも馬鹿認定して放置したことで、ヘイトやネット右翼が増殖していった部分もあるんじゃないですか?宮台 そう。問題はそこなんだ。その場合、教室の全員が「◯△はゴキブリ!」と叫ぶ哀れな子だったら、どうだろう。特殊教室内で連帯して、「自分たちを馬鹿認定する世間こそ、ゴキブリの仲間、つまりゴキブリだ!」と言い続けるでしょう。そんな幼稚な展開が今この社会で起こっている。僕らが「ゴキブリ」なら、知的な折伏などできません(笑)。どうするべきか。初期ギリシヤの教育が参考になる。そこでは自立が尊ばれ、依存が恥とされた。だから絶対神を持ち出すセム族が軽蔑され、神が報いようが報いまいが、理不尽や不条理に体ごと突っ込む営みが愛でられました。ただし言葉で愛でるのでなく、凄い人の近くで〈感染(ミメーシス)〉することが奨励されました。アッシリア起源でギリシアに拡がったファランクス(集団密集戦法)が専らだったことが背景です。要は、キモいか立派かということ。結論です。僕が推したいのは “左翼ゴロツキ戦略”です。しばき隊が好い例。「ヘイトはキモい。YouTubeとかで観たらキモいオヤジとオバハンばかり。筋骨隆々としてタトゥーが入ったしばき隊の方が格好いいぜ」という戦略です。──C.R.A.C.(旧・しばき隊)については「どっちもどっち」という意見もありますね。宮台 「ニューズウィーク」の記事みたいに「どっちもどっち、喧嘩両成敗」などと言ってる場合じゃない。中間層分解を背景に〈感情の劣化〉を被った人々が量産される今日では〈感情の政治〉に〈感情の政治〉で対抗する他ありません。威勢のいい排除主義者に感染しがちな人々を前に、“排除主義者”と“排除主義者を排除する排除主義者”が戦う構図です。宗教者ならどちらも同じだと言わなければならないだろうが、どっちもどっちという者はどこの宗教者なんだ。むろん“排除主義者”と“排除主義者を排除する排除主義者”とでは国際的なウケが全く違う。ヘイトデモが国連人権委員会から日本政府への勧告を招く一方、11月2日の反ヘイト東京大行進は海外メディアが好意的に報じたでしょう。〈感情の政治〉に〈感情の政治〉で抗う場合、別の次元にも注目する必要があります。これからはビッグデータ処理で浮かび上がった相関関係を使った政治的動員がますます優位になります。そうした動員のイメージを紹介します。道徳心理学者J・ハイトは実験心理学的には政治的表現に5つの感情の押しボタンがあるとします。ケアという弱者共感、公正と自由たる平等、忠誠たる伝統、秩序をなす権威、そして聖性。アメリカの民主党は、このうち弱者共感と平等のボタンしか押さないでやってきたと言います。他方の共和党は、弱者共感と平等のボタンを(やや低頻度であれ)押した上、伝統・権威・聖性のボタンも押すから選挙に強いが、オバマは従来の民主党候補と違い、伝統・権威・聖性のボタンも押したから大統領になれた、と言います。過去2年性愛ワークショップをやってきて思います。今は僕が指南するけど、未来には胸につけたカメラとマイクから情報を受け取ったサーバーが、小型イヤホンを通じ、ビッグデータ解析に基づく指南をリアルタイムで送ってくる⋯…。これは便利だが、それでナンパに成功したとして、いったい誰の達成か。そこでは主体の在処が疑問です。──ビッグデータの時代では政治の場にどのような変化が見られそうですか。宮台 人々がビッグデータ処理に基づいて感情のボタンを押されて投票する場合も、投票行動の主体性の在処が疑問になります。ネットでは、検索語の検閲や、検索語に関連する広告表示(アドセンス)や、購買履歴のアグリゲイション(集計)に基づくお勧めについて、疑念がくすぶってきました。今後はその比でなく、ビッグデータ解析が常套手段になります。ビッグデータ解析は予測に基づく行動制御を可能にするので、カネ儲けだけでなく、政治的動員も使えます。でもビッグデータ解析の利用機会には階層格差がある。だから富む者が一層富み、力を持つ者が一層力を持ちがちです。ここでも「感情でなく理性で戦う」と呑気なことを言っていたら、ビッグデータ解析を用いた広告代理店的動員に敗北します。同じやり方で抗うか、顔が見えるスモールユニットでの〈熟議&ファシリテータ〉で抗うか、です。ビッグデータ解析を用いた動員は、感情の押しボタン等に関する情報非対称性(知る者と知らない者の差)を利用するけれど、〈熟議&ファシリテータ〉の組合せは完全情報化の戦略なので、ユニットは小さいながらも有効に抗えます。──では今、知識人はどう振る舞えばよいのでしょうか?宮台 知識人はアル・ゴア的なポジションに追い遣られがち。「頭がいいからイヤな奴だ」と。中間層分解による〈感情の劣化〉とネット的分断による〈教養の劣化〉を背景にした〈感情の政治〉を、理性的説得では越えられない。マクロには、ヘイトデモに抗う反ヘイトデモにせよ、広告代理店的動員に抗う広告代理店的動員にせよ、〈感情の政治〉に〈感情の政治〉で抗う他ない。ミクロには、〈熟議&ファシリテータ〉の組合せで完全情報化を図る他ない。それで言えば、このリテラは、ゴシップ的に相手の梯子を外す“左翼ゴロツキ路線”の下品さで〈感情の政治〉に参戦しているし、従軍慰安婦問題や朝日捏造記事問題など丹念な探索で完全情報化を図っている。良い方向だと思う。
──ここまでの宮台さんの話を聞いていると、ネット右翼はとるに足らない存在のように思えますが、実際には朝日報道問題への反応などから察するに、無視できない影響力を持っています。宮台 違うと思う。言論の場に参加する年齢層が若くなって若干敏感になっただけで、僕らの世代は気にしていないと思う。気にしているのは、ネトウヨの動向じゃなく、それをカサに着た首相官邸の意向でしょう。映画監督の想田和弘氏が、昨今は〈参加民主主義〉ならぬ〈消費者民主主義〉に傾斜しがちだと言います。僕の言葉では、政治をネタに鬱屈を晴らす〈表出〉が、〈表現〉より優位する。要は〈実存と社会の混同〉。これはクソ。ネットに集う──その延長上でオフネットに出現する──ネトウヨが、政治に〈参加〉しているのか〈消費〉しているのかは一目瞭然です。でもそれは、マスコミの政治談義が〈消費者民主主義〉に過ぎない事実の「映し鏡」です。他の先進各国のように地方議会をウォッチせず、専ら霞が関がどうたら永田町がどうたらといったコミュニケーションに淫するマスコミと大衆の存在が、〈消費者民主主義〉を象徴します。それが「痴呆議会」とネトウヨを準備したわけです。──しかし今日の言論の模様を、若い世代は基本的にネットで受容しているわけで、消費のために編み出された言論を〈ガチ〉だととらえる。すなわち「そうか納得!やっぱ朝日って売国奴だわ」というふうになり、政治参加にまで向かう層もいるのではないですか?宮台 そう。だからこそ、しばき隊やリテラが体現している“左翼ゴロ路線”が有効なんだ。なぜ有効かといえば、まさにその“消費という場所”で戦えるからです。今までそういう戦い方がヘイトに独占されていたのを奪還するわけだ。それを圧倒的な〈知的物量作戦〉を伴った形で遂行すると良い。これには実例がある。1979年3月から2004年4月まで25年間続き、僕もたくさんゴシップを書かれた「噂の眞相」が、まさにそれを実践していたじゃないか(笑)。世の中に鬱屈した連中がいて、ネタは何でもいいから〈表出〉したいと思っているなら、「君たち、政治ネタを消費するなら、こっちの方が格好いいぜ」と“ガス抜き勝負”する部門が、ネトウヨだけでなく多方面になきゃいけない。僕たちが中高生のときに経験した学園闘争だって、今から振り返れば、ネタは何でもいいから〈表出〉したいという“ガス抜き”という面があったことは否めない。だって「暴れられて楽しかった」っていう同級生がたくさんいたしね。──“ガス抜き”だけで本当にいいんですか?宮台 “ガス抜き”だけでいいわけないじゃないか(笑)。ここでの僕の話も“ガス抜き”かよ。ただ、“ガス抜き”勝負になっているとき、そこで建設的かどうかなんて考えても、そもそも勝負のフィールドを勘違いしていると言いたいわけ。昨今重要なのは多方面作戦です。1960年代から70年代にかけての人文書全盛時代のような〈知的物量作戦〉の機能的等価物を復活させなければいけないし、同時代の“左翼ゴロツキ”の機能的等価物を復活させる必要もあります。ただし、間違っても、〈知的物量作戦〉によってネトウヨを論破できるとか説得できるとか思っちゃいけない。同じく「彼らにも他者の悲しみを自分の悲しみとする能力があるはずだ」などと考えるのもダメ。現実を見ましょう。
2014-11-09 18:41